勧修寺ハス見ごろ2024(6月下旬~8月上旬頃)

勧修寺ハス

勧修寺ハス見ごろ(見頃)

勧修寺ハス見ごろ(時期・イベント・・・)を紹介しています。勧修寺では池泉式庭園・勧修寺庭園(京都市指定名勝)の中心である氷室池(ひむろいけ)にハスが植えられ、ハスと氷室池・観音堂などの光景が美しいと言われています。ハスの花は早朝に咲き、昼頃には閉じます。(詳細下記参照)

【勧修寺ハス見ごろ(例年時期)】
勧修寺のハス見ごろは例年6月下旬頃から8月上旬頃です。なおハスの見ごろはその年の気候などによって多少前後することがあります。
京都ハス名所・見ごろ

【勧修寺ハス見ごろ アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6
最寄り駅・バス停・・・小野駅(徒歩約5分)

京阪アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*四条大宮・四条烏丸・四条河原町・三条京阪からは83系統、83A系統、84系統、86系統、86B系統、87A系統、87B系統、88B
路線・時刻表・運賃チェック

*地下鉄東西線の場合、最寄り駅は小野駅(徒歩約6分)

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【勧修寺ハス見ごろ(例年時期)・見どころ 簡単概要】
勧修寺は京都を代表するハス(蓮)の名所です。勧修寺のハス見ごろは例年6月下旬頃から8月上旬頃です。勧修寺では遅咲きが多く、例年7月中旬頃に最盛期を迎えるとも言われています。
勧修寺では池泉式庭園・勧修寺庭園(京都市指定名勝)池庭の中心である氷室池(ひむろいけ)にハスが植えられ、ハスと氷室池・観音堂などの光景が美しいと言われています。ハスの花は早朝に咲き、昼頃には閉じます。
勧修寺庭園は氷室池を中心とする池庭と書院の南に広がる平庭から構成されています。勧修寺庭園は900年(昌泰3年)の勧修寺創建前、宇治郡の大領・宮道弥益の邸宅だった時代に池(氷室池)のある庭として既に作庭されていたとも言われています。氷室池では平安時代に池に張った氷を1月2日に宮中に献上し、その厚さで五穀豊穣を占ったとも言われています。また氷室池は安土桃山時代に関白・豊臣秀吉が伏見城を築城した際、新道建設の為に氷室池の南側が埋め立てられ、現在の姿になったとも言われています。氷室池は江戸時代後期の「拾遺都名所図会(しゅういみやこめいしょずえ)・1786年(天明6年)刊行」に翠微滝(すいびのたき)などの氷室池十五勝が描かれています。1963年(昭和38年)に名神高速道路が開通して景観が損なわれ、騒音がひどくなったことから長さ約50メートルの竹林(孟宗竹)が造られました。池庭にはカキツバタ・ハナショウブ・ハス・カエデ・ウメなど植えられています。平庭には樹齢約750年と言われるハイビャクシンが植えられ、徳川光圀寄進と言われる雪見燈籠をアレンジした勧修寺型燈籠が置かれています。
観音堂は1931年(昭和6年)に再建されました。観音堂は大斐閣(だいひかく)とも称され、本尊・観世音菩薩像を安置しています。
ハス(蓮)はインド原産のハス科の多年性水生植物です。ハスは古くに中国から渡来し、食用のレンコン(蓮根)や観賞用のハナハス(花ハス)として、日本各地の池・沼・水田などで栽培されるようになりました。ハスは花托(かたく)の形状が蜂の巣に似ていることから古くは「はちす」と言われていました。ハスの花は蓮華(れんげ)と言われ、その名称は仏教とともに中国から伝来したとも言われています。如来像の台座には蓮華をかたどった蓮華座になっています。ハスは泥水の中から清浄な美しい花を咲かせることから仏の知恵や慈悲の象徴とされています。またハスは泥より出でて、泥に染まらずと称され、清らかさや聖性の象徴ともされています。ちなみに極楽浄土の池には「阿弥陀経(あみだきょう)」によると青・黄・赤・白色の車輪のような大きなハスの花が咲いていると言われているそうです。ハスは夏に水上に花茎を伸ばし、紅・淡紅・ピンク色・白色などの花を咲かせます。ハスの花は径10~25センチ、花弁が20数枚で、芳香があります。なおハスの花は早朝に咲き、昼頃には閉じます。

【勧修寺 歴史・簡単概要】
勧修寺(かじゅうじ)は平安時代前期の900年(昌泰3年)に第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)が生母・藤原胤子(ふじわらのいんし・ふじわらのたねこ)の追善の為、胤子の同母兄弟である右大臣・藤原定方(ふじわらのさだかた)に命じ、胤子の祖父・宮道弥益(みやじいやます)の邸跡を法相宗(ほっそうしゅう)の僧・承俊律師(しょうしゅんりっし)を開山として寺院に改めたのが起源と言われています。勧修寺の名称は胤子の父・藤原高藤(ふじわらのたかふじ)の諡号(しごう)に由来しています。その後905年(延喜5年)に定額寺(じょうがくじ)に列せられ、南北朝時代に第93代・後伏見天皇(ごふしみてんのう)の第7皇子・寛胤法親王(かんいんほうしんのう)が勧修寺15世になり、宮門跡寺院になりました。室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火などで焼失して衰退し、江戸時代前期の1682年(天和2年)に第112代・霊元天皇(れいげんてんのう)の皇子・済深法親王(さいしんほっしんのう)が入寺し、皇室・徳川家の援助によって復興されました。
勧修寺は真言宗山階派の大本山です。
*参考・・・勧修寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia

【勧修寺ハス見ごろ 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
勧修寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報

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