興聖寺椿見ごろ2024(2月中旬~4月中旬頃)
興聖寺椿見ごろ(見頃)
興聖寺椿見ごろ(イベント・・・)を紹介しています。興聖寺では法堂・僧堂・庫裡・薬医門に囲まれた中庭に八重の老椿1本が植えられ、椿と法堂・僧堂・庫裡・薬医門などの光景が美しいと言われています。興聖寺には老椿以外の椿も植えられ、白色・濃紅色の花を楽しむことができます。(詳細下記参照)
【興聖寺椿見ごろ(例年時期)】
興聖寺の椿見ごろは例年2月中旬頃から4月中旬頃です。なお椿の見ごろはその年の気候などによって多少前後することがあります。
京都椿名所・見ごろ
【興聖寺椿見ごろ アクセス・マップ】
場所・・・京都府宇治市宇治山田27
最寄り駅・バス停・・・京阪宇治駅(徒歩約10分)、JR宇治駅(徒歩約20分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅からはJR奈良線
*祇園四条駅からは京阪電鉄本線・宇治線
路線・時刻表・運賃チェック
【興聖寺椿見ごろ(例年時期)・見どころ 簡単概要】
興聖寺は椿(ツバキ)の名所です。興聖寺の椿見ごろは例年2月中旬頃から4月中旬頃です。
興聖寺ではいずれも宇治市指定有形文化財である法堂・僧堂・庫裡・薬医門に囲まれた中庭に八重の老椿1本が植えられ、椿と法堂・僧堂・庫裡・薬医門などの光景が美しいと言われています。興聖寺には老椿以外の椿も植えられ、白色・濃紅色の花を楽しむことができます。苔に落ちた椿の花が情緒を感じさせます。興聖寺では椿の花が散ると花手水(はなちょうず)に利用されることもあります。なお興聖寺は関西花の寺二十五カ所の第14番札所になっています。
椿は日本原産のツバキ科ツバキ属の常緑樹(照葉樹林)です。椿は北海道などを除く、日本各地に自生しています。椿は日本最古の正史「日本書紀・720年(養老4年)完成」に第12代・景行天皇が熊襲(くまそ)の乱を鎮めた際、土蜘蛛(つちぐも)に対して海石榴(ツバキ)の椎を用いたと記されています。椿は安土桃山時代に関白・豊臣秀吉が茶の湯に好んで用いると茶道で茶花として重要な地位を占めるようになりました。椿は江戸時代以降に多くの園芸品種が作られ、500以上の園芸品種があると言われています。なお椿は邪悪を祓うとも言われ、正倉院には災いを祓う海石榴の卯杖(うづえ)が収められています。
法堂は伏見城の遺構で、江戸時代前期の1649年(慶安2年)に伏見城から興聖寺に移されて改築されたと言われています。法堂は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際に東軍(徳川方)の鳥居元忠らが自害し、血天井と言われています。法堂には第87代・四条天皇筆の勅額「興聖寶林禅寺」が掛けられ、鴬張りの廊下になっています。
僧堂は1648年(慶安元年)に建立され、江戸時代中期の1702年(元禄15年)に改築されたと言われています。
庫裏は江戸時代に建立されたと言われています。
薬医門(中雀門)は江戸時代後期の1846年(弘化3年)に建立されたと言われています。
【興聖寺 歴史・簡単概要】
興聖寺(こうしょうじ)は鎌倉時代の1233年(天福元年)に曹洞宗(そうとうしゅう)の宗祖・道元禅師(どうげんぜんじ)が曹洞宗の道場・観音導利院興聖宝林禅寺(かんのんどうりいんこうしょうほうりんぜんじ)を深草(京都市伏見区深草)に創建したのが起源と言われています。道元禅師は1227年(安貞元年)に宋(中国)から帰国し、建仁寺(けんにんじ)に身を寄せ、1229年(寛喜元年)頃に深草の安養院(あんよういん)に閑居していました。その後1236年(嘉禎2年)に開堂式が行われて伽藍が完成したとも言われるが、延暦寺(えんりゃくじ)の弾圧を受け、1243年(寛元元年)に道元禅師が越前に下向してから荒廃し、応仁の乱(おうにんのらん)や兵火にって第4代住持(じゅうじ)で廃絶したとも言われています。江戸時代前期の1649年(慶安2年)に山城淀藩初代藩主で、永井家宗家2代・永井尚政(ながいなおまさ)が父・永井直勝(ながいなおかつ)の菩提を弔う為、万安英種(ばんなんえいしゅ)を招聘して第5代住持にし、朝日茶園があった現在の場所に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が築城した伏見城(ふしみじょう)の遺構を使って復興しました。なお江戸時代中期の1747年(延享4年)に越前・永平寺(えいへいじ)の末寺になりました。
興聖寺は曹洞宗の寺院です。
*参考・・・興聖寺(アクセス・歴史・・・)
【興聖寺椿見ごろ 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
興聖寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報