広橋経光の「民経記(みんけいき)」と祇園祭

広橋経光の「民経記」と祇園祭

権中納言民部卿・広橋経光は一条家・二条家・九条家・鷹司家とともに五摂家に数えられた近衛家の執事を務めたこともあり、鎌倉時代(1185年~1333年)中期の公家社会の動向・行事などが記されています。「民経記」には祇園祭なども記されています。

【祇園祭2026 日程】
祇園祭2026は2026年(令和8年)7月1日(水曜日)の吉符入から2026年(令和8年)7月31日(金曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2026日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)

【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)

【広橋経光(ひろはしつねみつ)の「民経記(みんけいき)」】
権中納言民部卿(ごんちゅうなごんみんぶきょう)・広橋経光は一条家(いちじょうけ)・二条家(にじょうけ)・九条家(くじょうけ)・鷹司家(たかつかさけ)とともに五摂家に数えられた近衛家(このえけ)の執事を務めたこともあり、日記「民経記(みんけいき)」には鎌倉時代(1185年~1333年)中期の公家社会の動向・行事などが記されています。また「民経記」には祇園祭なども記されています。「民経記」には1226年(嘉禄2年)から1267年(文永4年)までの約42年間が記されているが、中途に欠脱部分があります。「民経記」1226年(嘉禄2年)6月8日の条に「参此月末云々、今日祇園御輿迎也、入夜月色朧々、参祇園旅所事 八日、天晴、入夜中納言殿(広橋頼資)祇園旅所御参、御車二両、一両女房、一両中納言殿、侍二人、(藤原)盛家 (藤原)重村、先参少将井、冷泉東洞院也、奉幣如常、給析同(藤原光信)参也、次参京極寺御旅所、三条東洞院、次参大政所、奉幣如常、高辻烏丸也、更深更帰家、」と記され、「民経記」の筆者・広橋経光の父で、中納言・広橋頼資(ひろはしよりすけ・藤原頼資(ふじわらのよりすけ))が少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)・京極寺御旅所(きょうごくじおたびしょ)・大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)の3つの御旅所を巡ったことが分かります。広橋頼資は祇園祭の神輿迎えが行われた6月8日の夜に女房とともに牛車に乗り、お供の侍を伴って八坂神社の3基の神輿(少将井神輿・大政所神輿・八王子神輿)が泰安されている3つの御旅所を巡って奉幣し、家に帰りました。桃山時代(1583年~1603年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が少将井御旅所・大政所御旅所を統合し、八坂神社御旅所(四条御旅所)が建立したが、鎌倉時代(1185年~1333年)には冷泉東洞院に少将井御旅所・三条東洞院に京極寺御旅所、高辻烏丸に大政所御旅所があり、公家などが3つの御旅所を巡る習慣があったとも言われています。

●広橋頼資(藤原頼資)は平安時代末期の1182年(寿永元年)に藤原北家真夏流(日野家)で、権中納言・藤原兼光と法印院慶(院尚)の娘の五男として生まれました。広橋家の祖とされ、勘解由小路・四辻とも号しました。但馬守・蔵人頭・左大弁・造東大寺長官などを歴任し、1225年(元仁元年)に参議に任じられて公卿に列しました。翌年(1226年)7月に従三位に昇叙し、同年12月に権中納言に任じられました。1228年(安貞2年)に正三位、1232年(貞永元年)に従二位に昇叙したが、翌1233年(貞永2年)に中納言を辞し、長男・広橋経光を右少弁に申任して許されました。1235年(嘉禎元年)に病気で出家し、法名を真寂と称しました。広橋頼資は儒学に明るかったと言われています。広橋頼資は公私を合わせて20回以上の熊野に参詣し、1210年(承元4年)・1216年(建保4年)・1229年(寛喜元年)の熊野参詣は日記「頼資卿記」に詳細が記されています。兄・藤原資実が九条家に仕えたのに対し、近衛家に仕えて近衛家に近い立場を取りました。なお広橋頼資は鎌倉時代前期の1236年(嘉禎2年)4月7日に亡くなりました。
●広橋経光は鎌倉時代前期の1212年(建暦2年)に権中納言・広橋頼資の長男として生まれました。1218年(建保6年)に春宮蔵人、1221年(承久3年)に蔵人に任じられ、1222年(承久4年)に文章得業生になりました。その後因幡少掾・治部少輔などを歴任し、1226年(嘉禄2年)に昇殿が許され、1227年(安貞2年)に従五位上に昇叙しました。1229年(寛喜元年)に正五位下に昇叙し、1230年(寛喜3年)に春宮権大進になりました。その後右少弁・右衛門権佐・左少弁・権右中弁・右中弁・造東大寺長官・左中弁・左宮城使・右大弁などを歴任し、1239年(延応元年)に阿波権守に任じられ、正四位下に昇叙し、蔵人頭になりました。1241年(仁治2年)に参議になり、その後左大弁・勘解由長官・讃岐権守などを歴任しました。1244年(寛仁2年)に正三位に昇叙し、1247年(宝治元年)に権中納言に任ぜられ、1248年(宝治2年)に従二位、1255年(建長7年)に正二位に昇叙し、1260年(文応元年)に民部卿に任じられました。なお広橋経光は鎌倉時代後期の1274年(文永11年)5月22日に亡くなりました。

【広橋経光の「民経記」と祇園祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2026日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)

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