本居宣長(もとおりのりなが)の「在京日記」と五山送り火

本居宣長の「在京日記」と五山送り火

五山送り火は起源が明確ではないが、江戸時代以降に古文書・書物などに記録・絵などが残されています。京都に遊学していた国学者・医師である本居宣長は1756年(宝暦6年)に大文字を見物したことを「在京日記」に記しています。

【五山送り火2026 日程】
五山送り火2026は2026年(令和8年)8月16日(日曜日)20:00から5分間隔で順次点火されます。なお五山送り火は原則雨天決行だが、気象条件によって点火時間が変更になる場合もあります。
五山送り火2026(大文字・妙法・船形・左大文字・鳥居形)

【五山送り火 歴史・簡単概要】
五山送り火(ござんのおくりび)はお盆(おぼん・盂蘭盆(うらぼん))にあの世(冥府(めいふ))から帰ってきたお精霊さん(おしょらいさん)をあの世に送り返す仏教的行事です。五山送り火は宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」とも言われることがあります。五山送り火はいつ始まったかは明確ではありません。一説には多くの灯明を灯して仏神を供養する万灯会(まんどうえ)が山の山腹で行われるようになり、お盆の精霊の送り火(門火(かどび))になったとも言われています。

【本居宣長(もとおりのりなが)の「在京日記(ざいきょうにっき)」】
五山送り火は起源が明確ではないが、江戸時代(1603年~1868年)以降に古文書・書物などに記録・絵などが残されています。
京都に遊学していた国学者・医師である本居宣長が記した「在京日記」1756年(宝暦6年)7月16日の条に「十六日、いとあつし大方昨日今日の暑さは、あまり覚へぬ暑さにて、いと凌ぎがたしや、こよひ暮かたに、如意が嶽に大文字の火をともし侍る、奇観なり、(略)三条の橋の上より上下を見れば、火共多く見わたされて、げに都の内ならでは、かゝる繁華はあらじといとど目驚かる。まして今宵は、精霊のおくり火とて、川瀬に臨みて松火ともし、仏の食供養の物ながし侍るとて、川原へ皆人の出侍るなり、それより縄手を過て、四条河原へ出て、西石垣を通り、屈氏(師堀景山)の木屋町の座敷へ訪い侍るに、何くれ物言い侍るほどに、東山より月の出るさま、いはむかたなくおかし、この月は、例よりも月遅く出るやうに覚て、まことにこよひは、山の端にいざよふ(十六夜・イザヨイ)といふべし、山際少し雲かかりて、しばし中空より雲を出侍る月、絵にかけらんやう也、先生のつねに月は七月にまさることなしと宣へるが、げにやはらかにて、しかも秋のけしきすみわたりたる影、いとおもしろし、川水に影うかみてぞ、さらに涼しく覚え、孟明のぬしなどと和歌詩などの物語して、夜ふかく迄居たり。川原へ出て、月影にうかれありきたるなど、もろこし人のふるまひも思ひ出られて、いとおかし」と記され、旧暦の7月16日のお盆に本居宣長が如意が嶽(にょいがたけ)の大文字を見物したことが分かります。1756年(宝暦6年)7月15日・16日は現在の8月に該当することもあり、経験がなく、耐え難い大変な暑さだったようです。また大文字も現在よりも早い、日暮れとともに灯されていたようです。三条大橋の上から大文字などを見渡すことができ、その人出は大変多かったようです。お盆では鴨川の河川敷で松明が灯され、亡くなった人に食べ物を供養する施餓鬼(せがき)が行われ、食べ物が鴨川に流されました。本居宣長は三条大橋から縄手を経て、四条河原から西石垣を通り、木屋町にあった師匠・堀景山の屋敷を尋ねた際、東山が上って雲から顔を出した十六夜の月が美しく、絵のようだったそうです。堀景山は月は7月の月が一番美しいと言い、鴨川の川面に映し出されると涼しく感じたようです。本居宣長・堀景山の子弟は夜遅くまで和歌・詩などを語り合って、鴨川の河川敷に出て、唐人(中国人)の振る舞いを思って面白かったようです。なお「在京日記」には1752年(宝暦2年)から1758年(宝暦7年)の記録が残され、大文字送り火だけでなく、東山花見・鴨川夕涼み・祇園祭・月見・顔見せ・怪奇現象など京都の生活・文化・娯楽などが記されています。

●本居宣長は江戸時代中期の1730年(享保15年)6月21日に伊勢国松坂の木綿仲買商で、父・小津三四右衛門定利と村田孫兵衛豊商の娘で、母・勝の次男・富之助として生まれました。1737年(元文2年)に寺子屋に学び、1740年(元文5年)に父・小津三四右衛門定利が亡くなりました。1744年(延享元年)に元服し、1745年(延享2年)に江戸大伝馬町の叔父の店に寄宿し、翌1746年(延享3年)に松坂に戻りました。1748年(寛延元年)に伊勢国山田の紙商兼御師の今井田家の養子になったが、1750年(寛延3年)に解消して松坂に戻りました。1751年(寛延4年)に義兄・宗五郎定治が亡くなり、小津家を継いだが、商売に関心がなかったことから店を整理し、母の勧めで医師を志して京都に遊学しました。母の実家・村田家に寄宿し、堀景山に入門して学びました。同年に姓を祖先の「本居」に戻しました。堀元厚・武川幸順から医学を学び、1755年(宝暦5年)に名を「宣長」に改め、正式に医者として歩み出しました。1756年(宝暦6年)頃から日本固有の古典学を研究するようになり、荻生徂徠・契沖に触発されて国学の道に入ることを志しました。「先代旧事本紀」・日本最古の歴史書「古事記」を購入し、賀茂真淵の「冠辞考」に触発されて国学の研究もしました。1757年(宝暦7年)に堀景山が亡くなり、1758年(宝暦7年)に松坂に戻って医師として開業しました。1760年(宝暦10年)に母方の縁者である村田彦太郎の娘・美可と結婚したが、3ヶ月で離縁し、1762年(宝暦12年)に津藩主・藤堂氏の侍医を勤める草深氏の娘・たみと再婚しました。1763年(宝暦13年)に賀茂真淵が松坂に立ち寄った際に入門し、文通で指導を受けました。その後一時期紀伊藩に仕えました。60歳頃から名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などを旅しました。1793年(寛政5年)から散文集「玉勝間」を書き始め、思想・信念などを述べました。1797年(寛政10年)に「古事記伝」を完成させ、1800年(寛政12年)に「地名字音転用例」を刊行しました。本居宣長は荷田春満・賀茂真淵・平田篤胤とともに「国学の四大人」に数えられました。なお本居宣長は江戸時代後期の1801年(享和元年)11月5日に71歳で亡くなりました。

【本居宣長の「在京日記」と五山送り火 備考】
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五山送り火スポット

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