熊野若王子神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

熊野若王子神社の歴史を時代別年表にまとめ
熊野若王子神社の歴史を簡単にまとめています。熊野若王子神社は社伝によると1160年(永暦元年)に34回も熊野詣を行った後白河上皇が永観堂(禅林寺)の守護神として紀州・熊野権現を勧請したのが起源と言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【永観堂(禅林寺)】
●永観堂(えいかんどう・禅林寺(ぜんりんじ))は853年(仁寿3年)10月に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の高弟である河内観心寺(かんしんじ)・真紹(しんじょう)が都における真言宗密教(しんごんみっきょう)の実践道場の建立を志し、藤原関雄(ふじわらのせきお)の邸宅跡を買い取り、五智如来(ごちにょらい)を安置したのが起源と言われています。
【熊野若王子神社の起源・始まり】
●熊野若王子神社は社伝によると1160年(永暦元年)に34回も熊野詣(くまのもうで)を行った後白河上皇(第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう))が永観堂(禅林寺)の守護神として紀州・熊野権現(くまのごんげん)を勧請したのが起源と言われています。祈願所だった正東山若王子の鎮守とされました。熊野若王子神社の社名は天照大神(あまてらすおおみかみ)の別称である若一王子に由来しているそうです。熊野若王子神社は熊野神社(くまのじんじゃ)・新熊野神社(いまくまのじんじゃ)とともに京の熊野三山に数えられました。熊野若王子神社は熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)、新熊野神社は熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)、熊野神社は熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)に対応しています。
天照大神は伊弉諾と伊弉冉の子神として生まれました。また伊弉諾が伊弉冉のいる黄泉の国から生還し、黄泉の穢れから禊を行った際に左の目から生まれたとも言われています。天照大神は月読尊の夜の食国、素戔嗚尊の根の国に対し、高天原を治めました。天照大神は太陽神の性格と巫女の性格を併せ持ち、皇祖神として伊勢神宮内宮に祀られています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●平安時代後期以降に熊野詣を行う際に修験者(しゅげんじゃ)は先ず熊野若王子神社で身を浄めてから出発したと言われています。
●平安時代後期に平清盛(たいらのきよもり)の娘で、第80代・高倉天皇(たかくらてんのう)の中宮、そして第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)の生母となる建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)の為に安産を祈願しました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
●鎌倉時代前期に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)が寄進し、「般若心経(はんにゃしんぎょ)」を奉納したと言われています。
●鎌倉時代から室町時代に武家から信仰され、寄進を受けたと言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
●南北朝時代に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)がこの地で花見の宴を開いたと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
●1465年(寛正6年)3月に室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)がこの地で花見の宴を開いたと言われています。
●1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、兵火によって荒廃したと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
●桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が再興したと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●江戸時代前期頃に樹齢400余年の梛(ナギ)の大木が植えられたとも言われています。梛の大木は京都府で最古の梛の木とも言われています。
●江戸時代に聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)の院家になり、正東山若王子乗々院と号したとも言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●明治時代に村社に列せらました。
●明治時代に本宮・新宮・那智・若宮の4社が修築されました。
●1978年(昭和53年)に本宮・新宮・那智・若宮の4社が一社相殿の本殿に改築されました。
【熊野若王子神社を創建した第77代・後白河天皇】
第77代・後白河天皇は1127年(大治2年)に第74代・鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の第4皇子として生まれました。親王宣下を受けて「雅仁」と命名され、1139年(保延5年)に元服して二品に叙せられました。1129年(大治4年)に曽祖父・白河法皇(第72代・白河天皇)が崩御すると父が院政を開始し、藤原得子を寵愛したことから第75代・崇徳天皇に譲位を迫り、1142年(永治元年)に父と藤原得子の子・体仁親王が第76代・近衛天皇に即位したが、1155年(久寿2年)に近衛天皇が崩御すると藤原得子の養子となっていた後白河天皇の第1皇子・守仁親王(第78代・二条天皇) が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で後白河天皇に即位しました。後白河天皇は皇位継承がもとで起こった保元の乱で勝利したが、1158年(保元3年)に在位僅か3年で皇太子・守仁親王(二条天皇) に譲位し、二条天皇、第79代・六条天皇、第80代・高倉天皇、第81代・安徳天皇、第82代・後鳥羽天皇の5代・30余年にわたって院政を行いました。1169年(仁安4年)に離宮・法住寺殿で出家して法皇になりました。院政期間中に平治の乱・源平の合戦を経て、鎌倉幕府が成立しました。なお第77代・後白河天皇は1192年(建久3年)に崩御しました。
【熊野若王子神社の歴史 備考】
*参考・・・熊野若王子神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
















