泉涌寺涅槃会2025/3/14~16(日程時間・・・)
泉涌寺涅槃会
泉涌寺涅槃会(日程・時間・・・)を紹介しています。涅槃会は例年3月14日から16日に行われています。涅槃会では仏殿に縦約16メートル・横約8メートルで、日本最大と言われる絹本著色涅槃図が掲げられます。涅槃図は江戸時代中期に浄土宗の画僧・明誉古かんが描き、当初奈良・東大寺に奉納する予定だったとも言われています。(詳細下記参照)
【泉涌寺涅槃会2025 日程時間(要確認)】
泉涌寺涅槃会2025は2025年(令和7年)3月14日(金曜日)~16日(日曜日)9:00~16:30に行われます。なお15日に法要が行われます。(現在確認中・要注意)
*参考・・・泉涌寺ホームページ
【泉涌寺涅槃会 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
最寄り駅・バス停・・・泉涌寺道(徒歩約7分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から泉涌寺は208系統(D2乗り場)
*四条河原町からは207系統
*四条烏丸からは207系統
*河原町丸太町202系統
路線・時刻表・運賃チェック
*JR奈良線の場合、最寄り駅は東福寺駅(徒歩約15分)
*京阪電鉄本線の場合、最寄り駅は東福寺駅(徒歩約15分)
【泉涌寺涅槃会 歴史・簡単概要】
泉涌寺涅槃会(ねはんえ)はお釈迦様の遺徳追慕と報恩の為に行われる法要です。涅槃会は例年3月14日から16日に行われています。ちなみにお釈迦様は陰暦2月15日(新暦3月15日)に入滅したと言われています。
涅槃会では仏殿(重要文化財)に縦約16メートル・横約8メートルで、日本最大と言われる絹本著色涅槃図(けんぽんちゃくしょくねはんず)が掲げられます。絹本著色涅槃図は江戸時代中期に報恩寺(ほうおんじ)第15代住職で、浄土宗(じょうどしゅう)の画僧・明誉古かん(めいよこかん)が描き、当初奈良・東大寺(とうだいじ)に奉納する予定だったとも言われています。
涅槃会は今から約2,500年前に80歳で入滅(にゅうめつ)したお釈迦様の遺徳追慕と報恩の為に行われる法要です。法要ではお釈迦様が娑羅双樹の下で、頭を北にして西を向き、右脇を下にした姿で横たわり、十大弟子から獣畜・虫類までが嘆き悲しむ様子を描いた涅槃図が掲げられます。涅槃会はお釈迦様が入滅した日が陰暦の2月15日ということから新暦の2月15日や3月15日を中心に行われています。なお涅槃会はお釈迦様が生まれたことを祝う灌仏会(かんぶつえ)とお釈迦様が悟りを開いたこと喜ぶ成道会(じょうどうえ)とともに釈迦の三大法会と言われています。
涅槃は燃えさかる煩悩の火を滅し、迷いがなくなった悟りの境地を言うそうです。かつてはお釈迦様が35才で悟りを開いた境地を涅槃、入滅した時を大般涅槃(だいはつねはん)と言って区別していたそうだが、その後入滅した時を単に涅槃と言うようになったそうです。なお涅槃はサンスクリット語の「ニルヴァーナ(吹き消した状態)」を訳したものだそうです。
お釈迦様(釈迦牟尼 ゴータマ・シッダッタ)は仏教の開祖で、世界四聖の一人です。ちなみに仏陀とは悟った者・目覚めた者を意味するお釈迦様の尊称です。お釈迦様は約2,500年前の旧暦の4月8日、インド国境に近いネパールのルンビニーの花園で、父・シャカ族の国王である浄飯王(じょうばんのう・シュッドーダナ)と母・摩耶夫人(まやふじん・マーヤー)との間に生まれました。お釈迦様は生まれてすぐに7歩歩き、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」と唱えたとも言われています。29歳で出家し、35歳の旧暦の12月8日の夜明け前、明星出現と同時にブッダガヤの菩提樹の下で、悪魔の誘惑に負けずに悟りを開きました。その後約45年間に渡り、インド各地を回って教えを説き、クシナーラで亡くなりました。お釈迦様の遺骸は火葬され、遺骨は各地の舎利塔(仏塔)に分けて祀られたそうです。
画僧・明誉古かんは1653年(承応2年)に大和郡山で生まれ、東京・増上寺で修行し、京都・報恩寺の住職になりました。晩年西岩倉に閑居して、絵師・狩野永納に絵を学び、1684年(貞享元年)に敬神の証として大黒天を千体描き、1717年(享保2年)7月1日に亡くなったと言われています。なお明誉古かんは雪舟の画風を慕ったとも言われています。
●泉涌寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
泉涌寺歴史(空海・藤原緒嗣・神修上人)
●泉涌寺の見どころ(仏殿・開山堂など)を紹介しています。
泉涌寺見どころ(仏殿・開山堂など)
【泉涌寺 歴史・簡単概要】
泉涌寺(せんにゅうじ)は起源が明確ではありません。泉涌寺は平安時代前期の天長年間(824年~834年)に真言宗の開祖である弘法大師・空海が草庵を結んで、法輪寺と名付けたのが起源とも言われています。また泉涌寺は855年(斉衡2年)に左大臣・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が神修上人(じんしゅうしょうにん)に山荘を与えて寺院に改め、仙遊寺と称したのが起源とも言われています。その後1218年(建保6年)に月輪大師(がちりんだいし)・俊じょう(しゅんじょう)が鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の家臣・宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)から寄進され、1226年(嘉禄2年)に宋法式を取り入れた大伽藍を造営し、泉涌寺に名称を改めました。泉涌寺の名称は寺地の一角から清水が涌き出したことに由来し、現在も枯れることなく湧き続けています。1224年(貞応3年)に第86代・後堀河天皇が皇室の祈願寺とし、崩御後に後堀河天皇の陵墓が築かれ、1242年(仁治3年)に第87代・四条天皇が崩御すると葬儀が営まれました。なお泉涌寺は江戸時代以降、第108代・後水尾天皇から第121代・孝明天皇までが山内に葬られ、陵墓に香を焚き、花を供える香華院となり、「御寺(みてら)」と尊称されるようになりました。
泉涌寺は真言宗泉涌寺派の総本山です。
*参考・・・京都・泉涌寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【泉涌寺涅槃会 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
泉涌寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報
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