銀閣|足利義政・銀箔なし・調査などを解説|銀閣寺見所

銀閣完全ガイド|足利義政・銀箔なし・調査などを解説
銀閣は金閣とともに京の三閣に数えられて有名です。銀閣は1489年(長享3年)に室町幕府8代将軍・足利義政が建て、2007年(平成19年)の科学的調査により、一度も銀箔が張られていなかったことが判明しました。なお東山(とうざん)慈照寺(じしょうじ)は銀閣が有名な為、一般的に銀閣寺と言われています。(詳細下記参照)
【概要・概略|銀閣(観音殿)】
銀閣(国宝)は二階に観音菩薩(かんのんぼさつ)坐像(洞中観音)を安置する観音殿(かんのんでん)として創建されました。銀閣は池泉回遊式庭園の中心である錦鏡池(きんきょうち)の畔に建立されています。銀閣は木造二階建てで、当初二階は外面・内面が黒漆塗(くろうるしぬり)でした。ただ軒下に彩色があったことが痕跡から判明しています。一階に地蔵菩薩(じぞうぼさつ)坐像・千体地蔵菩薩立像を安置しています。
●観音菩薩は観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)・観自在菩薩(かんじざいぼさつ)・救世菩薩(くせぼさつ)・観音さまなどとも言われています。観音菩薩は人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。観音菩薩は救う相手の姿に応じて千変万化の相となると言われています。「観音経」では様々に姿を変える三十三応化身(さんじゅうさんおうげしん)が説かれています。なお観音菩薩には千手観音・聖観音・十一面観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝観音・不空羂索観音などがいます。
【歴史・時代|銀閣(観音殿)】
銀閣は1489年(長享3年)に室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が東山山荘(東山殿)内に建てました。ただ足利義政は1490年(延徳2年)正月に銀閣の完成を見ることなく65年で亡くなりました。足利義政は1482年(文明14年)から東山山荘の造営を開始し、常御所・西指庵・東求堂・会所・泉殿(弄清亭)・釣秋亭・竜背橋・漱せん亭・超然亭などを建て、最後に銀閣を建てました。1550年(天文19年)の室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と三好長慶(みよしながよし)の兵火で多くの建物が焼失したが、銀閣・東求堂は焼失を免れました。その後江戸時代に数度改修されたと言われています。2008年(平成20年)2月から2010年(平成22年)3月に大規模な修復作業が行われました。修復費は約1億4,000万円でした。
●足利義政は1436年(永享8年)に室町幕府6代将軍・足利義教の子として生まれました。1441年(嘉吉元年)に父が赤松満祐に殺害され、兄・足利義勝が将軍になったが、1443年(嘉吉3年)に兄も早逝し、1449年(文安6年)に元服して将軍宣下を受けました。しかし宿老中心の政治を嫌って遊興に耽るようになりました。嗣子がいなかった為、弟・義尋(足利義視)を後継者にしたが、1465年(寛正6年)に日野富子が室町幕府9代将軍となる足利義尚を生んだことから応仁の乱の一因になり、1467年(応仁元年)に応仁の乱が勃発しました。1473年(文明5年)に東軍総大将・細川勝元と西軍総大将・山名宗全に亡くなったことから子・義尚に将軍職を譲って隠居しました。その後東山山荘(東山殿)を造営し、茶の湯・絵画など風雅な生活を送り、東山文化が築きました。足利義政は1490年(延徳2年)に亡くなりました。
【金閣寺の金閣・苔寺の瑠璃殿|銀閣(観音殿)】
銀閣は足利義政が祖父で、室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が建てた金閣にならって建てましたした。また足利義政は金閣の二階・三階や苔寺(こけでら・西芳寺(さいほうじ))の瑠璃殿(るりでん・舎利殿(しゃりでん))を参考にして創建したとも言われています。足利義政は銀閣創建前の1487年(文明19年)に金閣を不意に訪れた記録が残されています。また1457年(長祿元年)3月14日から1480年(文明12年)10月9日までに苔寺を15回以上訪れた記録が残されています。
●金閣寺の金閣は木造三階建て(二重三階)の楼閣(ろうかく)建築で、屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)のこけら葺き(ぶき)で鳳凰(ほうおう)が取り付けられています。
●苔寺の瑠璃殿は銀閣と同じ二階建ての楼閣建築で、その斬新な姿が銀閣・金閣に強い影響を与えたと言われています。瑠璃殿は池の周辺に建立され、庭園を見下ろすことができました。
【構造・形式|銀閣(観音殿)】
銀閣は木造二階建ての楼閣建築で、一階が書院造(しょいんづくり)、二階が禅宗様(ぜんしゅうよう・唐様(からよう))です。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)のこけら葺き(こけらぶき)です。一階は東西約8.2メートル・北約7.0メートル・南約5.9メートルです。勝手口が突出している為、北側が南側よりも1メートルほど長くなっています。一階の東側には落縁が設けられ、軒が二軒(ふたのき)になっている為、東側が正面になっています。なお銀閣は一階が心空殿(しんくうでん)、二階が潮音閣(ちょうおんかく)と言われています。
●屋根には鳳凰(ほうおう)が取り付けられています。ただ18世紀後半(江戸時代後期)頃までは鳳凰ではなく、宝珠(ほうじゅ)が置かれていました。宝珠は災難を除くとされているそうです。
【銀箔・調査|銀閣(観音殿)】
銀閣は2007年(平成19年)に銀閣寺が奈良文化財研究所に依頼した科学的調査により、1489年(長享3年)の創建以来、一度も外壁に銀箔が張られていなかったことが判明しました。調査では風雨に晒されにくく、これまで修理されなかった部分から分析試料を取り出し、極少量の元素でも検出可能と言われるエックス線による元素分析とICP/MS(誘導結合プラズマ質量分析法)が行われたが、銀の成分は全く検出されなかったそうです。ただ白土と明礬(みょうばん)が検出されました。銀閣は壁面に黒漆が施され、その上に白土を塗り重ね、更に明礬を溶かした液を塗ると固まった明礬が白く輝いていたとも言われています。
●銀は金に次いで延性に富み、1グラムの銀は約2,200メートルの線に伸ばすことができるそうです。銀箔も製造されています。
【名前・名称|銀閣(観音殿)】
銀閣が金閣に対し、銀閣と言われるようになったのは江戸時代以降のことです。1658年(万治元年)に山本泰順(やまもとたいじゅん)が刊行した「洛陽名所集(らくようめいしょしゅう)」に「銀閣寺」と記されているのが初例で、銀箔に彩られた銀閣があることが記されています。また1711年(正徳元年)に刊行された「山州名跡志(さんしゅうめいせきし)」には銀箔がなく、趣から銀閣という旨が記されています。なお銀閣と言われるようになった理由には銀箔を貼る予定だったが、財政難や足利義政の死でできなかった説、外壁の黒漆が日光で銀色に輝いて見えた説などがあります。
●銀閣は2008年(平成20年)から2010年(平成22年)まで大規模な修復作業が行われ、二階の内部に黒漆の塗ったり、屋根を葺き替えたりしたが、外壁の黒漆塗り替えは銀閣寺の意向によって行わなかったそうです。
●「洛陽名所集」は山本泰順が刊行した地誌です。「洛陽名所集」には「山城のうち、都のはしばし名にたてる所凡三百有余をあげ、或いは宮寺のもとつかた、人の由来伝ふるを考へ、しかもその所にながめおける代々の歌まで、たづねもとめ、しるし待りて、洛陽名所集となづけて、十二巻とせり」と記され、京都にある神社仏閣など300ヶ所余の名所が収録されています。
【銀閣|銀閣寺見所 備考】
銀閣と金閣の違いは銀閣が「わび・さび」に重きを置いた東山文化、金閣が華やかな北山文化を代表する建物であることです。
*参考・・・銀閣寺(見どころ・歴史・銀閣・・・)ホームページ

















