鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)と葵祭
鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経と葵祭
鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経(九条頼経)は鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1238年(嘉禎4年)1月28日に京都に上洛する為に鎌倉を出発し、2月17日に京都に入洛して六波羅御所に入り、4月16日に葵祭を見物し、10月13日まで京都に滞在して鎌倉に戻りました。
【葵祭日程2026(要確認)】
葵祭2026ではハイライトである路頭の儀が2026年(令和8年)5月15日(金曜日)に行われます。(悪天候の場合、翌16日に順延)なお葵祭では例年5月1日から主な前儀・後儀が行われます。
葵祭2026日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭・路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀2026
【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の第29代・欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来
【鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)】
鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経(九条頼経(くじょうよりつね))は鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1238年(嘉禎4年)1月28日に京都に上洛する為に鎌倉を出発し、2月17日に京都に入洛して六波羅御所(ろくはらごしょ)に入り、4月16日に葵祭を見物し、10月13日まで京都に滞在して鎌倉に戻りました。
「吾妻鑑」1238年(嘉禎4年)4月16日の条に「嘉禎四年四月小十六日辛酉。天霽。賀茂祭(葵祭)也。將軍家御見物之間。毎事花美超例年。則御家人廷尉能行。家平。基政。頼業等渡大路。」と記され、4月16日の酉(とり)の日に藤原頼経が葵祭の路頭の儀(ろとうのぎ)を見物しました。美しさは例年を越えていました。葵祭は平安時代(794年~1185年)中期に隆盛を極めたが、武家に権勢が移った鎌倉時代前期でもまだ華やかだったようです。鎌倉の御家人で、検非違使(けびいし)の大江能行・中条家平(なかじょういえひら)・後藤基政(ごとうもとまさ)・宇都宮頼業(うつのみやよりなり・横田頼業)らが大路(一条大路)を練り歩きました。
「吾妻鑑」1238年(嘉禎4年)1月28日の条に「嘉禎四年正月小廿八日乙亥。天霽。將軍家御上洛。寅刻。先晴賢參。勤御身固。今日八龍日也。聊有其難歟之由。雖有傾申之族。御出門之上者。不可及日次沙汰之旨被仰。無御許容云々。巳刻御進發。被用御輿。護持僧岡崎法印成源。(乘輿)御驗者公覺僧都。隆弁律師。頼曉律師。醫道施藥院使良基朝臣。權侍醫時長朝臣。陰陽道前大藏權大輔泰貞。散位晴賢朝臣等也。随兵以下前後供奉人悉進發之處。匠作未及御出立。剩有圍碁會。左京兆頻被勸申之。而彼祗候人等云。未被整旅具云々。仍京兆被献野箭行騰等之後。酉刻進發給。」酉剋着御酒匂驛。護持僧并醫陰兩道之輩宿被點御所近邊。同雜事送夫等者。爲加賀前司奉行沙汰給云々。」と記され、1月28日に藤原頼経が鎌倉を出発しました。外出が不向きな八龍日だったことから安陪晴賢がお祓いをし、藤原頼経は輿に乗って京都に向かいました。将軍を守る護持僧・岡崎法印成源、健康を守る醫道施藥院使・良基、陰陽師・安倍泰貞らがお伴し、藤原頼経近くに宿泊しました。
「吾妻鑑」1238年(嘉禎4年)10月13日の条に「嘉禎四年十月大十三日甲寅。天霽。寅一點。將軍家關東御下向御進發也。御持僧岡崎僧正成源。醫師良基。時長等朝臣也。陰陽師泰貞。晴賢等朝臣。又陰陽頭維範朝臣被召具之。忠尚。季尚。在直等朝臣。候御身固。前後陣供奉人随兵等。同御入洛之時。但各行粧花美軼前儀。大相國禪閤於四宮河原御見物。堀河大納言(具實卿)於大津浦被立車。其外卿相曇客車不可勝計。凡見物緇素。以面爲墻。酉剋着御小脇驛。近江入道虚假立御所奉入。御儲結搆無比類云々。」と記され、10月13日に藤原頼経が鎌倉に向かって出発しました。鎌倉を出発した時と同じように護持僧・醫道施藥院使・陰陽師がお供し、藤原頼経の外祖父・西園寺公経が四宮河原で美しい行列を見物しました。
藤原頼経は1238年(嘉禎4年)時点で20歳頃で、1234年(天福2年)に正室・竹御所が亡くなっていたことから正室を向かい入れる為に京都に上洛したとも言われています。上洛中には祖父母・両親・兄弟らと面会し、藤原氏が氏神とする奈良・春日大社にも参詣しました。
●藤原頼経は1218年(建保6年)2月12日に摂政関白・九条道家と西園寺公経の娘・綸子の間に九条道家の三男として生まれました。1219年(建保7年)に鎌倉幕府3代将軍・源実朝が暗殺され、鎌倉幕府は後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)の皇子を親王将軍として迎えようとしたが、後鳥羽上皇が拒否した為、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の同母妹・坊門姫の曽孫にあたる藤原頼経が摂家将軍として迎え入れられました。ただ幼かったことから北条政子が尼将軍として後見し、1225年(嘉禄元年)に北条政子が亡くなると元服し、1226年(嘉禄2年)に鎌倉幕府4代将軍になりました。1230年(寛喜2年)に鎌倉幕府2代将軍・源頼家の娘で、16歳年上の竹御所を正室としたが、1234年(天福2年)に竹御所が死産によって亡くなりました。1238年(暦仁元年)に後ろ盾の北条泰時・北条時房らと上洛しました。父・九条道家と外祖父・西園寺公経が関東申次として朝廷と鎌倉幕府を調整していたが、北条氏に配慮していた西園寺公経が亡くなり、北条氏に反発を抱く九条道家が鎌倉幕府に影響力を及ぼそうとし、北条氏との関係が悪化し、1244年(寛元2年)に嫡男・藤原頼嗣に将軍職を譲り、1245年(寛元3年)に出家しました。1246年(寛元4年)に北条氏の排斥運動が察知されて京都に送還され、父・九条道家も関東申次を罷免されて籠居させられました。その後宝治合戦などにより、1252年(建長4年)に嫡男・藤原頼嗣が鎌倉幕府5代将軍を解任されて京都に送還され、関与を疑われた父・九条道家も失意の中で亡くなりました。なお藤原頼経は1256年(建長8年)9月1日に亡くなりました。
【鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経と葵祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ











