鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)と葵祭
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝と葵祭
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝は鎌倉時代前期の1195年(建久6年)2月14日に東大寺大仏殿落慶供養に参列の為に鎌倉を出発し、3月12日に落慶供養に参列し、4月17日の葵祭の摂関賀茂詣を見物することを禁止しました。その後6月25日まで京都に滞在して鎌倉に戻りました。
【葵祭日程2026(要確認)】
葵祭2026ではハイライトである路頭の儀が2026年(令和8年)5月15日(金曜日)に行われます。(悪天候の場合、翌16日に順延)なお葵祭では例年5月1日から主な前儀・後儀が行われます。
葵祭2026日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭・路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀2026
【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の第29代・欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来
【鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)】
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝は鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1195年(建久6年)2月14日に東大寺大仏殿落慶供養に参列の為に鎌倉を出発し、3月12日に落慶供養に参列し、4月17日の葵祭の摂関賀茂詣を見物することを禁止しました。その後6月25日まで京都に滞在して鎌倉に戻りました。
「吾妻鑑」1195年(建久6年)4月17日の条に「建久六年四月小十七日壬申。丹後二品局被參六波羅御亭。御臺所姫公等及御對面。今日。殿下參賀茂社給云々。而將軍家被仰御家人等之中曰。此事爲見物不可罷出云々。是依無御見物也。」と記され、高階栄子が六波羅御亭に訪ねてきて、正室・北条政子と長女・大姫が面会しました。また源頼朝は葵祭前日の申(さる)の日に摂政・九条兼実(くじょうかねざね)が賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)に参向する摂関賀茂詣(せっかんかももうで)を御家人らが見物しないように命じました。ちなみに平安時代中期に清少納言(せいしょうなごん)が記した「枕草子(まくらのそうし)」に「見物は臨時の祭。行幸。祭の帰さ(還さ)。御賀茂詣。」と記され、摂関賀茂詣(御賀茂詣)は見物に値する行事でした。源頼朝・九条兼実は協調関係にあったが、長女・大姫を後鳥羽天皇に入内させようとした源頼朝と娘・任子が後鳥羽天皇に入内していた九条兼実に間に立場の違いがあり、摂関賀茂詣の見物禁止に繋がったのかもしれません。源頼朝は九条兼実の政敵である源通親・丹後局と接近し、大量の贈り物を贈り、荘園を安堵しました。九条兼実は1196年(建久7年)の建久七年の政変で一族とともに失脚しました。
「吾妻鑑」1195年(建久6年)2月14日の条に「建久六年二月小十四日庚午。巳尅。將軍家自鎌倉御上洛。御臺所并男女御息等同以進發給。是南都東大寺供養之間。依可有御結縁也。畠山二郎重忠候前陣云々。」と記され、2月14日に源頼朝が北条政子・大姫らとともに鎌倉から京都に出発しました。源頼朝は東大寺大仏殿落慶供養に参列し、大仏と仏縁を結ぶことが目的でした。
「吾妻鑑」1195年(建久6年)3月12日の条に「建久六年三月大十二日丁酉。朝雨霽。午以後雨頻降。又地震。今日東大寺供養也。雨師風伯之降臨。天衆地類之影向。其瑞揚焉。寅一點。和田左衛門尉義盛。梶原平三景時。催具數万騎壯士。警固寺四面近郭。日出以後。將軍家御參堂。御乘車也。小山五郎宗政持御釼。佐々木中務丞經高着御甲。愛甲三郎季隆懸御調度。隆保。頼房等朝臣扈從連軒。伊賀守仲教。藏人大夫頼兼。宮内大輔重頼。相摸守惟義。上総介義兼。伊豆守義範。豊後守季光等供奉。於隨兵者數万騎雖有之。皆兼令警固辻々并寺内門外等。其中海野小太郎幸氏。藤澤二郎淸親以下。撰殊射手。令座惣門左右脇云々。至御共隨兵者。只廿八騎。相分候于前後陣。但義盛。景時等者。依爲侍所司。令下知警固事之後。自路次更騎馬。各爲最前最末之隨兵云々。」と記され、3月12日に侍所長官・和田左衛門尉義盛や副官・梶原平三景時ら数万が警備し、大仏殿落慶供養が行われました。源頼朝は日の出後に大仏殿に参詣しました。大仏殿落慶供養には後鳥羽天皇・北条政子らも臨席しました。
「吾妻鑑」1195年(建久6年)6月25日の条に「建久六年六月小廿五日戊寅。時々雨降。將軍家關東御下向也。供奉人同御入洛之時。但畿内西海之間。爲宗之輩。多以扈從云々。又中納言律師忠快。(門脇中納言教盛卿子)中納言禪師増盛(新中納言知盛卿息)等。并前美濃守則淸子息。令相伴之給云々。是皆平氏縁坐也。」と記され、6月25日に源頼朝は京都を出発して鎌倉に戻りました。お供の行列は京都に入洛した時と同じです。
源頼朝は1181年(養和元年)に東大寺大勧進職に任命された俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)から浄財寄付を依頼され、後白河法皇・九条兼実らとともに援助しました。
●源頼朝は1147年(久安3年)5月9日に源義朝と藤原季範の娘・由良御前の間に源義朝の三男として生まれました。1156年(保元元年)の保元の乱で父・源義朝が平清盛とともに勝利し、1158年(保元3年)に皇后宮権少進に任じられ、その後内蔵人などを歴任しました。1159年(平治元年)の平治の乱で父・源義朝が平清盛に敗れ、東国に敗走して謀殺され、源頼朝も捕らえられて京都に送られ、斬罪されるところだったが、平清盛の義母・池禅尼の嘆願で死を免れ、伊豆に配流されました。伊東祐親・北条時政の監視下で読経三昧の日々を過ごし、北条時政の娘・北条政子と結婚しました。1180年(治承4年)に後白河上皇の皇子・以仁王の令旨を受けると北条時政などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、石橋山の戦いで敗れたが、その後関東を制圧しました。1181年(養和元年)に平清盛が病死し、1183年(寿永2年)に源義仲が入京したが、その後後白河法皇と対立しました。1184年(寿永3年)に末弟・源義経を先陣とし、弟・源範頼を総大将に任命して大軍を京都に進め、源義仲を粟津の戦いで討ちました。その後平氏を追討し、1185年(文治元年)に平氏を壇ノ浦で滅亡させました。その後戦功を挙げた源義経を追放し、奥州藤原氏を奥州合戦で滅ぼしました。1190年(建久元年)に上洛し、後白河法皇・後鳥羽天皇に謁見し、権大納言・右近衛大将に任じられたが、それらを辞して鎌倉に戻りました。1192年(建久3年)に後白河法皇が崩御すると九条兼実の計らいにで征夷大将軍に任じられました。源頼朝は武家政権の首長が征夷大将軍に任ぜられる慣例をつくりました。なお源頼朝は1198年(建久9年)に相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩し、1199年(建久10年)2月9日に亡くなりました。
【鎌倉幕府初代将軍・源頼朝と葵祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ












