祇園祭と法華一揆(ほっけいっき)

祇園祭と法華一揆(ほっけいっき)

祇園祭は千百年以上の歴史があり、兵火・対立・圧力などによって延期されたり、中止されたりしました。法華一揆最中の天文年間は延暦寺・法華衆・室町幕府・細川晴元・六角定頼などが複雑に絡み合う政情の影響を受けました。

【祇園祭 日程】
祇園祭は7月1日の吉符入(きっぷいり) から7月31日の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2024日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)

【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)

【祇園祭と法華一揆(ほっけいっき)】
祇園祭は平安時代前期に始まって千百年以上の歴史があり、兵火(戦乱)・対立・圧力などによって延期されたり、中止されたりしました。八坂神社はかつて比叡山延暦寺(えんりゃくじ)の末寺、延暦寺の守護神・日吉大社(ひよしたいしゃ)の末社とされ、延暦寺・日吉大社から大きな影響を受けました。法華一揆(ほっけいっき)最中の天文年間(1532年~1555年)は延暦寺・日吉大社だけでなく、法華衆(町衆)・室町幕府・将軍不在の京都を支配下に置いた細川晴元(ほそかわはるもと)・近江国守護(室町幕府管領代)の六角定頼(ろっかくさだより)などが複雑に絡み合う政情の影響を受けました。「祇園執行日記(ぎおんしっこうにっき)」1533年(天文2年)6月7日の条に「七日、山鉾ノ義ニ付、朝山本大蔵ガ所ヘ、下京ノ六十六町ノクワチキヤチ(月行事)共、フレ口(触口)、雑色ナド皆々来候テ、神事無之共、山ホコ渡シ度事ヂヤゲニ候。此方ハシラズ。今日又帖シタヽメナホシ、山本二郎四郎近江ノ公方ヘ下候也。」と記され、延暦寺の圧力により、室町幕府から八坂神社に祇園祭の神事停止が命じられたことを聞いた下京六十六町の町衆(月行事・触口・雑色)が八坂神社を訪れ、「神事ナクトモ山鉾渡シタシ」と訴えました。八坂神社は関係ないことだが、文にして近江にいる室町幕府12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)に伝えました。同年6月20日頃に法華一揆で対立していた細川晴元と本願寺が和睦すると室町幕府が祇園祭の追加実施を決定し、山鉾を調えることを命じました。1533年(天文2年)の山鉾巡行は「実隆公記(さねたかこうき)」・「祇園執行日記」によると日吉大社の祭礼延期によって延期され、「実隆公記」によると8月に行われました。戦国時代(室町時代後期)には町衆の関心が神事よりも山鉾巡行に移しました。

【法華一揆 祇園祭】
法華一揆は戦国時代(室町時代後期)の天文年間(1532年~1555年)に京都で起こった一連の宗教一揆です。鎌倉時代後期の1294年(永仁2年)に日蓮宗(法華宗(ほっけしゅう))の開祖・日蓮聖人(にちれんしょうにん)の孫弟子である肥後阿闍梨(ひごあじゃり)日像上人(にちぞうしょうにん)が帝都弘通(京都の布教)宗義天奏(天皇への布教)の遺命を受けて入京すると比叡山延暦寺(えんりゃうじ)の訴えにより、日蓮宗(法華宗)は朝廷から追放や許可が繰り返されました。その後日蓮宗(法華宗)は朝廷や幕府に公認され、延暦寺が反発したが、天文年間までに本圀寺(ほんこくじ)などの日蓮宗の寺院が建立され、町衆に信仰が広がりました。洛中の町衆の7割が法華衆(日蓮宗の宗徒)だったとも言われています。1532年(天文元年)に一向衆(浄土真宗(じょうどしんしゅう)本願寺(ほんがんじ)の門徒)が入京するとの噂が広がり、法華衆(日蓮宗の宗徒)は室町幕府12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の命により、室町幕府34代管領・細川晴元、近江国守護(室町幕府管領代)・六角定頼、山城南部の守護代・木澤長政(きざわながまさ)らと一向衆と戦って山科本願寺を焼き討ちしました。法華衆は洛中の自治権を得て、地子銭の納入を拒否したりしました。1536年(天文5年)に延暦寺西塔の僧侶・華王房が上総茂原妙光寺の檀那・松本久吉との松本問答によって論破され、延暦寺は日蓮宗が法華宗を名乗ることを止めさせる室町幕府の裁定でも敗れ、延暦寺は法華衆の一掃することを決議しました。延暦寺は洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対し、延暦寺の末寺になるように迫ったが、要求が拒否されたことから朝廷・室町幕府に法華衆討伐の許可を求めました。戦闘開始直後に法華衆が有利だったが、六角定頼の軍勢が延暦寺方に加わると日蓮宗寺院二十一本山が焼き討ちされました。兵火は下京の全域と上京の3分の1ほどに及び、応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火を上回りました。法華衆は大阪堺に逃れ、室町幕府は法華衆に3ヶ条の禁令を出し、日蓮宗(法華宗)は一旦禁教になりました。1542年(天文11年)に六角定頼が斡旋し、朝廷から法華衆に帰還を許す勅許が下されたが、延暦寺が抗議し、1547年(天文16年)に六角定頼の仲介により、延暦寺と法華衆の和議が成立し、その後日蓮宗寺院二十一本山の内の15の本山が再建されました。

【祇園祭と法華一揆(ほっけいっき) 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
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