成就院椿見ごろ2025(侘助椿)

成就院椿見ごろ(時期・アクセス・概要)

成就院椿見ごろ(イベント・・・)を紹介。成就院には池泉観賞式庭園・月の庭に関白・豊臣秀吉手植えとも言われる樹齢約400年の侘助椿が植えられています。侘助椿は秀吉が唐入りを目指した文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際、加藤清正が朝鮮から日本へ持ち帰って秀吉に献上したとも言われています。(詳細下記参照)

【成就院椿見ごろ(例年時期)】
成就院の椿見ごろは現在調査中です。なお椿の見ごろはその年の気候などによって多少前後することがあります。
京都椿名所・見ごろ

【成就院椿見ごろ アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市東山区清水1-294
最寄り駅・バス停・・・清水道(徒歩約10分)、五条坂(徒歩約10分)

アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から成就院は100系統(D1乗り場)清・五、206系統(D2乗り場)清・五
*四条河原町・四条烏丸・四条堀川・四条大宮からは207系統清・五
*河原町丸太町・烏丸丸太町・堀川丸太町からは202系統清・五
路線・時刻表・運賃チェック

*京阪電鉄本線の場合、最寄り駅は清水五条駅(徒歩約22分)・祇園四条駅(徒歩約25分)

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【成就院椿見ごろ(例年時期)・見どころ 簡単概要】
成就院は京都で良く知られている椿の名所です。成就院の椿見ごろは現在調査中です。
成就院には池泉観賞式庭園・月の庭に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)手植えとも言われる樹齢約400年の侘助椿(わびすけつばき)が植えられています。侘助椿は豊臣秀吉が唐入りを目指した文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際、加藤清正(かとうきよまさ)が朝鮮から日本へ持ち帰って豊臣秀吉に献上したとも言われています。なお成就院には豊臣秀吉寄進とも言われる「誰が袖手水鉢(だがそでちょうずばち)」も置かれています。
月の庭は絵師・相阿弥(そうあみ)が作庭し、小堀遠州(こぼりえんしゅう)が補修したとも、松永貞徳(まつながていとく)が作庭したとも言われています。月の庭は妙満寺(成就院)の雪の庭と廃寺になった成就院の花の庭とともに成就院の雪月花の洛中三名園と言われていました。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)に織田信長の足軽(百姓)・木下弥右衛門と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(天瑞院)の間に生まれました。先ず今川氏の家来で、頭陀寺城城主・松下之綱に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長に仕えました。1561年(天正9年)に浅野長勝の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1582年(天正10年)の本能寺の変後に山崎の戦いで明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)に62歳で伏見城内で亡くなりました。
加藤清正は1562年(永禄5年)に刀鍛冶・加藤清忠と鍛冶屋清兵衛の娘・伊都の子として生まれました。父が3歳の時に亡くなり、伊都が関白・豊臣秀吉の生母・仲と従姉妹だったことから秀吉の小姓として仕えました。その後秀吉の直轄領の代官を務め、1582年(天正10年)に本能寺の変が起こると山崎の戦いに参加しました。翌1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで山路正国を討ち取り、賤ヶ岳の七本槍に数えられました。1586年(天正14年)からは九州平定に参加し、佐々成政が改易されると肥後北半国を与えられ、熊本城を改修しました。1592年(天正20年)から文禄・慶長の役に参加したが、1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなると帰国しました。その後徳川家康に接近し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで徳川方に参加し、肥後南半国を与えられました。なお加藤清正は1611年(慶長16年)8月2日に亡くなりました。
椿は日本原産のツバキ科ツバキ属の常緑樹(照葉樹林)です。椿は北海道などを除く、日本各地に自生しています。椿は日本最古の正史「日本書紀」に第12代・景行天皇が熊襲(くまそ)の乱を鎮めた際、土蜘蛛(つちぐも)に対して海石榴(ツバキ)の椎を用いたと記されています。椿は安土桃山時代に関白・豊臣秀吉が茶の湯に好んで用いると茶道で茶花として重要な地位を占めるようになりました。椿は江戸時代以降に多くの園芸品種が作られ、500以上の園芸品種があると言われています。なお椿は邪悪を祓うとも言われ、正倉院には災いを祓う海石榴の卯杖(うづえ)が収められています。

【成就院 歴史・簡単概要】
成就院は1467年(応仁元年)に応仁の乱が起こり、1469年(文明元年)に本堂など伽藍の多くが焼失した清水寺を再興した清水寺本願職・願阿上人(願阿弥)の住房・本願院が起源です。その後本願院は成就院と名付けられ、清水寺の塔頭になりました。成就院は清水寺を運営した「三職六坊」に数えられ、本願職として伽藍の整備や財政の維持管理などを担当しました。戦国時代(1493年~1590年)に相阿弥が庭園「月の庭」を作庭したと言われています。1510年(永正7年)に第104代・後柏原天皇の勅願寺になったと言われています。江戸時代(1603年~1868年)前期に小堀遠州または松永貞徳が庭園「月の庭」を補修したとも言われています。1629年(寛永6年)に成就院からの出火により、清水寺の本堂など伽藍の多くが焼失し、1639年(寛永16年)に第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院(徳川和子)の寄進により、成就院の現在の建物が再建されました。幕末に第24代住職・月照とその弟で、第25代住職・信海が近衛忠熙・西郷隆盛ら勤王攘夷派の志士と連絡を取って密議を重ねました。
*参考・・・成就院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

【成就院椿見ごろ 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
成就院(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報

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