城南宮火焚祭2024年11月20日(日程時間・・・)

城南宮火焚祭

城南宮火焚祭

城南宮火焚祭(日程・時間・・・)を紹介しています。火焚祭は例年11月20日に行われています。火焚祭は秋の収穫・五穀豊穣に感謝します。火焚祭では氏子などの願いが込められた火焚串(護摩木)を護摩壇で焚き上げ、祈願成就を願います。なお火焚祭では巫女による神楽・浦安の舞(うらやすのまい)も奉納され、平安を祈念します。(詳細下記参照)

【城南宮火焚祭2024 日程時間(要確認)】
城南宮火焚祭2024は2024年(令和6年)11月20日(水曜日)15:00から行われます。(現在確認中・要注意)
*参考・・・城南宮(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

【城南宮火焚祭 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
最寄の駅・・・竹田駅(徒歩約15分)

路線は次の通りです。
*京都駅からは近鉄京都線

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【城南宮火焚祭 歴史・簡単概要】
城南宮火焚祭(ひたきさい)は秋の収穫・五穀豊穣に感謝します。また護摩壇で火焚串(護摩木)を焚き上げ、祈願成就を願います。
火焚祭では先ず交通安全祈祷殿で祝詞奏上などの神事が行われ、その後護摩壇で氏子などの願いが込められた火焚串を焚き上げ、祈願成就を願います。火焚祭では神職など参列者が大祓詞(おおはらえのことば)を唱え、罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)・万福招来(ばんぷくしょうらい)・無病息災・家内安全を祈ります。なお火焚祭では巫女による神楽・浦安の舞(うらやすのまい)も奉納され、平安を祈念します。
火焚祭は宮中で古くから行われている新嘗祭(にいなめさい)が起源とも言われています。新嘗祭では11月23日に天皇が五穀の新穀を全ての神々である天神地祇(てんじんちぎ)に供え、自らも食して収穫に感謝しました。新嘗祭は宮中三殿の近くの神嘉殿で行われていたそうです。新嘗祭は室町時代に民間にも広まり、竃(かまど)の神の祭り・火の神の祭りへと転化していたそうです。
大祓詞は奈良時代から祭祀の際に使われている祝詞(のりと)で、中臣祓詞(なかとみのはらえことば)・中臣祭文(なかとみさいもん)・中臣の祓(なかとみのはらえ)とも言いています。中臣氏(藤原氏)が奈良時代に朱雀門で奏上していたそうです。
神楽は神社の祭礼などの神事の際、神に奉納する歌舞です。神楽は天照大神(あまてらすおおかみ)が天の岩戸に隠れた際、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞ったのが起源とも言われています。神楽には宮中で行われる御神楽と神社など民間で行われる里神楽に大きく分けられます。ちなみに浦安の舞は昭和天皇が1933年(昭和8年)に詠んだ「天地(あめつち)の 神にぞ祈る 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を」が歌詞になっています。

【城南宮 歴史・簡単概要】
城南宮(じょうなんぐう)は第14代・仲哀天皇の皇后・神功皇后(じんぐうこうごう)による三韓征伐の際に船上に立てた旗とともに神功皇后・大国主神(八千戈神)を祀った真幡寸神社(まはたきじんじゃ)が起源と言われています。その後794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇による平安京遷都の際に国土の安泰と都の守護を祈願し、国常立尊(くにのとこたちのみこと)が併祀され、城南神と言われるようになりました。平安時代後期に白河上皇(第72代・白河天皇)が鳥羽離宮(城南離宮)を造営し、院政を始めたことから離宮の一部になりました。その後御所の裏鬼門を守る神となったが、応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))などの兵火によって荒廃し、江戸時代に復興されました。なお1876年(明治10年)に名称を真幡寸神社に改めたが、1968年(昭和43年)に名称を城南宮に戻し、真幡寸神社は境内摂社として、新たな社殿が造営されました。
*参考・・・城南宮(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

【城南宮火焚祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
城南宮(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報
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