祇園祭と平清盛・祇園臨時祭
祇園祭と平清盛・祇園臨時祭
祇園祭はかつて6月14日に行われ、翌日6月15日に祇園臨時祭が行われていました。1147年(久安3年)6月15日に平清盛が宿願の成就を祈願する為に田楽を奉納しようとした際、武装した平氏の郎党が八坂神社の下級神職・神人に咎められ、闘乱になりました。
【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【祇園祭と平清盛・祇園臨時祭】
祇園祭はかつて6月14日に行われ、翌日6月15日に祇園臨時祭が行われていました。祇園臨時祭は平安時代中期の975年(天延3年)に第64代・円融天皇(えんゆうてんのう)が始め、平安時代後期の1124年(天治元年)に第75代・崇徳天皇(すとくてんの)の御願によって毎年行われるようになりました。1147年(久安3年)6月15日の祇園臨時祭の夜に平清盛(たいらのきよもりが)が宿願の成就を祈願する為に田楽(でんがく)を奉納しようとした際、武装した平氏の郎党が八坂神社の下級神職・神人(じにん)に咎められ、闘乱になりました。その際に放たれた矢が宝殿に突き刺さり、多数の負傷者が発生しました。平清盛の父・平忠盛(たいらのただもり)は仕えていた鳥羽法皇(第74代・鳥羽天皇)に郎党を引き渡し、その後検非違使庁(けびいしちょう)に引き渡されました。しかし974年(天延2年)から八坂神社を別院(末寺)としていた延暦寺(えんりゃくじ)が納得せず、「本朝世紀」に「忠盛朝臣清盛朝臣父子共以可被處流刑」と記され、平忠盛・平清盛の配流を求め、延暦寺は守護神であった日吉大社(ひよしたいしゃ)・八坂神社の神人とともに神輿を押し立てて強訴(ごうそ・山訴(さんそ))しました。その後鳥羽法皇は公卿らを招集して裁定が開かれたが、鳥羽法皇の庇護もあり、平忠盛・平清盛の親子は配流を免れ、平清盛に「贖銅三十斤」の罰金刑が課されました。また八坂神社に闘乱を謝罪する奉幣使(ほうへいし)が派遣され、贖銅の太政官符に捺印の儀式があり、乱闘事件は決着しました。なお平清盛は保元の乱・平治の乱を経て、太政大臣まで登り詰め、平氏は栄華を極めます。
延暦寺(日吉大社)は八坂神社や祇園祭に強い影響力があり、1571年(元亀2年)の織田信長による比叡山焼き討ちまで影響力が及んでいたと言われています。延暦寺では強訴(山訴)が受け入れられない場合、日吉大社の日吉祭(日吉小五月祭)を行わず、祇園祭が延期になりました。室町時代中期の1447年(文安4年)~1467年(応仁元年)の20年間に強訴の影響により、祇園祭は11回も延期になり、6回は12月に行われました。ちなみに戦国時代(室町時代後期)の1511年(永正8年)には日吉大社の祭礼が遅延により、山鉾の準備が間に合わず、翌1512年(永正9年)5月23日に山鉾巡行が行われ、1年に2回祇園祭が行われました。
【平清盛 祇園祭】
平清盛は1118年(永久6年)2月10日に伊勢平氏の棟梁・平忠盛と白河院女房の間に生れ、平忠盛の長男でした。平清盛は白河法皇(第72代・白河天皇)の落胤とも言われています。1129年(大治4年)に12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任され、1137年(保延3年)に父が熊野本宮を建立した功により、肥後守に任じられました。1153年(仁平3年)に父が亡くなると平氏の棟梁になり、鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇)に仕えました。1156年(保元元年)に保元の乱が起こると源義朝とともに第77代・後白河天皇側について勝利し、1159年(平治元年)に平治の乱で源義朝らの源氏などを追討して対立勢力を一掃しました。1160年(永暦元年)に正三位・参議となって武家出身として初めて公卿に列し、1167年(仁安2年)に従一位・太政大臣になりました。同年に太政大臣を辞し、1168年(仁安3年)に病気になって出家しました。1171年(承安元年)に娘・徳子が第80代・高倉天皇の女御として入内し、翌1172年(承安2年)11月12日に言仁親王(第81代・安徳天皇)が生まれました。平氏は日宋貿易や三十余国の知行国を持って隆盛を極め、平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめした。1177年(治承元年)に平氏打倒の謀議・鹿ヶ谷の陰謀が起こると後白河法皇を離宮・鳥羽殿に幽閉し、1180年(治承4年)に第80代・高倉天皇が譲位して言仁親王が第81代・安徳天皇に即位しました。また福原遷都も行ないました。なお平清盛は1181年(治承5年)3月20日に亡くなりました。
【祇園祭と平清盛・祇園臨時祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2025日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)