鍬山神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

鍬山神社の歴史を時代別年表にまとめ
鍬山神社の歴史を簡単にまとめています。鍬山神社は709年(和銅2年)に医王谷に創建されたと言われています。祭神・大己貴命が鍬で保津峡を伐り開き、水を流して耕作田に変えて住民に与え、感謝した住民が鍬山大明神として祀ったとも言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【亀岡盆地】
●亀岡盆地(かめおかぼんち)は丹波高地(たんばこうち)南部に位置する南北約10キロ・東西約3.5キロの細長い構造盆地です。亀岡盆地は盆地床を大堰川(おおいがわ)が貫流し、東縁に急斜面の断層崖、西縁に起伏の少ない山地や浅い谷などがあります。なお鍬山神社の社伝によると太古の昔、丹の湖であった亀岡盆地南端に位置する黒柄山(くろがらやま)に八柱の出雲の神々が降臨し、一艘の樫舟に乗り、浮田(うけた)の峡と言われた保津峡(ほづきょう)を鍬(くわ)・鋤(すき)を使って開削し、水を山城国(京都)に流して肥沃な耕地に変えたと伝えられ、鍬が山のように高く積み上がったことから「鍬山」と言われるようになりました。
【鍬山神社の起源・始まり】
●鍬山神社は社伝によると709年(和銅2年)に現在の場所から北西約800メートルの医王谷(いおうだに)に創建されたと言われています。祭神・大己貴命(おおなむちのみこと)が鍬で保津峡を伐り拓き、水を流して耕作田に変えて住民に与え、感謝した住民が鍬山大明神として祀ったとも言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●平安時代中期に「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)・927年(延長5年)編纂」に「丹波国桑田郡 鍬山神社」と記され、式内社(しきないしゃ)に列せられました。
●平安時代中期に医王谷出身で、984年(永観2年)に日本最古の医学書「医心方」を著した医家・丹波康頼(たんばのやすより)に信仰されたと言われています。「医王谷」の名称は丹波康頼に由来しています。
●1165年(永万元年)に誉田別尊(ほんだわけのみこと・応神天皇(おうじんてんのう))が弓矢を負った武人の姿で面降山(天岡山)に降臨したと言われています。誉田別尊は新八幡宮として鍬山宮の隣に祀られました。なお村人は雷雨の発生などを鍬山宮(大己貴命)と八幡宮(誉田別尊)の不和と考え、八幡宮を杉谷に遷したこともあったそうです。
●平安時代後期に源頼政(みなもとのよりまさ)が当地を拝領し、八田の地名が矢田に改められ、矢田神社とも言われたそうです。鍬山神社は8つの神田を有していたことから地名が「八田」と言われていました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
●1576年(天正4年)に織田信長(おだのぶなが)の家臣・明智光秀(あけちみつひで)が丹波に侵攻し、古くから行われていた祭礼が廃され、別当寺・大智院が創建されて神田が接収されました。
●桃山時代に亀山城城主・小早川秀秋(こばやかわひであき)から度々禁制が出されたと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●1609年(慶長14年)に亀山城城主・岡部長盛(おかべながもり)が現在の社地を寄進し、社殿を建立しました。●1639年(寛永16年)に藩主・菅沼定房が社領を寄進しました。
●1681年(延宝9年)に郷長(町年寄)・杉原守親が「祭礼中興記」を記して祭礼を再興し、城主・松平忠晴が神輿を寄進したことから例大祭が口丹波一の大祭・亀岡祭(亀山祭)になりました。行列は城内に入り、藩主の拝礼を受けたと言われています。
●1814年(文化11年)に鍬山宮・八幡宮が建立されたと言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1873年(明治6年)に近代社格制度で郷社に列せられ、1928年(昭和3年)に府社に昇格しました。
●2010年(平成22年)に約140年振りに亀岡祭のくじ取り式が復活しました。
【鍬山神社の祭神である大己貴命】
大己貴命(大国主命) は日本最古の歴史書「古事記」・日本最古の正史「日本書紀」によると素盞鳴尊(素戔嗚尊・須佐之男命)の子または六世の孫とされています。大己貴命は国産み・神産みの伊奘冉尊(伊邪那美命)の死によって未完のまま放置されていた国土を高天原の神・天つ神の命により、少彦名神とともに完成させ、天照大神の使者が来ると国土を献上して隠退したとされています。また大己貴命は出雲国造の祖神、出雲大社の祭神ともされています。
【鍬山神社の歴史 備考】
*参考・・・鍬山神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ