京都桔梗名所・見ごろ(天得院・廬山寺・・・)

晴明神社桔梗

京都桔梗名所・見ごろ(見頃)

京都桔梗名所・見ごろ情報を紹介しています。京都には天得院・智積院・廬山寺・晴明神社・福知山城などの桔梗の名所があります。天得院では枯山水庭園に約300株の桔梗が植えられ、紫・白色の花を咲かせます。廬山寺では本堂前に作庭されている源氏庭に約1,000株の桔梗が植えられ、紫色の可憐な一重・八重の花を咲かせます。

【桔梗(キキョウ) 基礎知識】
桔梗はキキョウ科の多年草です。桔梗は日本・朝鮮半島・中国・東シベリアなどの温帯の日当たりのよい山野の草地などに自生しています。桔梗は高さ50センチ~1メートルで、葉は長卵形で、先が尖って縁に鋸歯があります。桔梗は茎頂近くに鐘状で、先が星型に5裂した径3~5センチの花を横向きに1~3個咲かせます。花は青紫色から淡紫色だが、白花・桃色花・二重咲など園芸品種もあります。桔梗は女郎花・尾花・撫子・藤袴・葛・萩とともに秋の七草に数えられているが、花を6月中旬頃の梅雨頃から初秋の9月頃まで咲かせます。

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【天得院 桔梗(キキョウ)】
天得院では枯山水庭園に約300株の桔梗が植えらています。桔梗見ごろは例年6月中旬頃から7月中旬頃です。
天得院は正平年間(1346年~1370年)に東福寺第30世住持・無夢一清禅師が創建しました。その後荒廃し、中興の祖・大機慧雄禅師が再興し、1614年(慶長19年)に東福寺第227世・文英清韓が住持になりました。文英清韓は豊臣秀頼の要請により、方広寺の梵鐘の鐘銘を撰文したが、鐘銘中に「国家安康」・「君臣豊楽」の文字があり、江戸幕府初代将軍・徳川家康を引き裂き、豊臣家の繁栄を願うとして、家康の怒りを招いて取り壊されました。1789年(天明9年)に伽藍が再建され、1868年(明治元年)に東福寺山内塔頭・本成寺を合寺しました。
天得院桔梗見ごろ

【智積院 桔梗(キキョウ)】
智積院では金堂に向かう参道両脇など境内各所に1,000本以上の桔梗が植えられています。桔梗見ごろは例年6月中旬頃から9月上旬頃です。
智積院は南北朝時代に和歌山・根来寺の学頭・真憲坊長盛が平安時代に興教大師・覚鑁が創建した大伝法院(根来寺)の学頭寺院として根来山内に創建したのが起源と言われています。1585年(天正13年)に根来寺が関白・豊臣秀吉と対立し、根来攻めによって焼失しました。1601年(慶長6年)に智積院住職・玄宥僧正が江戸幕府初代将軍・徳川家康から豊臣秀吉が豊国大明神として祀られていた豊国神社境内の坊舎・土地を寄進されて再興し、豊臣秀吉の子・棄丸の菩提を弔う為に創建された祥雲禅寺も賜って境内・伽藍が拡充されました。
智積院桔梗見ごろ

【廬山寺 桔梗(キキョウ)】
廬山寺では本堂前に作庭されている源氏庭に約1,000株の桔梗が植えられています。桔梗見ごろは例年6月下旬頃から9月上旬頃です。
廬山寺は天慶年間(938年~947年)に延暦寺の中興の祖で、厄除け大師とも言われる天台18世座主である元三大師・良源が標高約111.7メートルの船岡山の南に創建したのが起源と言われています。1245年(寛元3年)に浄土宗の開祖・法然上人の弟子・覚瑜が船岡山の南麓に再興し、中国の廬山に因んで寺号を廬山天台講寺に改めました。1571年(元亀2年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際には第106代・正親町天皇の女房奉書によって免れましたが、天正年間(1573年~1593年)に関白・豊臣秀吉の命によって現在の場所に移されました。
廬山寺桔梗見ごろ

【晴明神社 桔梗(キキョウ)】
晴明神社では本殿に向かって左手にある桔梗苑などに約2,000株の桔梗が植えられています。桔梗見ごろは例年6月中旬頃から9月下旬頃です。
晴明神社は1007年(寛弘4年)に第66代・一条天皇の命により、1005年(寛弘2年)に亡くなった陰陽師・安倍晴明の遺業を讃え、その屋敷跡に社殿を造営したのが起源と言われています。晴明神社は当初東は堀川通・西は黒門通・北は元誓願寺通・南は中立売通という広大な社地を有していたが、度重なる兵火や関白・豊臣秀吉の命によって社地は縮小し、社殿も荒廃しました。幕末以降氏子が中心になって社殿を整備し、1950年(昭和25年)には社地も拡張されました。
晴明神社桔梗見ごろ

【福知山城 桔梗(キキョウ)】
福知山城では初代福知山城城主・明智光秀の家紋で、福知山市の市の花のひとつになっている桔梗が随所に植えられ、紫色の花を咲かせます。桔梗見ごろは例年6月頃から9月頃です。
福知山城は室町時代後期に甲斐源氏の一族で、弓馬術礼法小笠原流の祖・小笠原長清の末裔で、国人・塩見頼勝が掻上城を八幡山の脇に築城したが起源です。1579年(天正7年)に明智光秀が織田信長の命によって丹波を平定すると城名が福智山城に改められ、大規模な修築が行われました。しかし1582年(天正10年)の本能寺の変後に戦われた山崎の戦い光秀が敗北すると織田信長の四男で、豊臣秀吉の養嗣子・羽柴秀勝が城主になりました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に有馬豊氏が入城して大改修を行い、現在の姿になりました。
福知山城桔梗見ごろ

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