近衛信尹(このえのぶただ)・大文字と五山送り火
近衛信尹・大文字と五山送り火
五山送り火の内、大文字には真言宗の宗祖である弘法大師・空海が始めたという説、室町幕府8代将軍・足利義政が始めたとする説、公家・近衛信尹が始めたという説があり、中川喜雲刊行の「案内者」に近衛信尹説が記載されています。
【五山送り火2026 日程】
五山送り火2026は2026年(令和8年)8月16日(日曜日)20:00から5分間隔で順次点火されます。なお五山送り火は原則雨天決行だが、気象条件によって点火時間が変更になる場合もあります。
五山送り火2026(大文字・妙法・船形・左大文字・鳥居形)
【五山送り火 歴史・簡単概要】
五山送り火(ござんのおくりび)はお盆(おぼん・盂蘭盆(うらぼん))にあの世(冥府(めいふ))から帰ってきたお精霊さん(おしょらいさん)をあの世に送り返す仏教的行事です。五山送り火は宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」とも言われることがあります。五山送り火はいつ始まったかは明確ではありません。一説には多くの灯明を灯して仏神を供養する万灯会(まんどうえ)が山の山腹で行われるようになり、お盆の精霊の送り火(門火(かどび))になったとも言われています。
【近衛信尹(このえのぶただ)・大文字】
五山送り火の内、大文字には平安時代(794年~1185年)初期に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が始めたという説、室町時代(1336年~1573年)中期に室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が始めたとする説、江戸時代(1603年~1868年)初期に公家・近衛信尹(このえのぶただ)が始めたという説があります。
江戸時代(1603年~1868年)前期の1662年(寛文2年)に俳人・仮名草子(かなぞうし)作者である中川喜雲(なかがわきうん)が刊行した「案内者(あんあいしゃ)」には「山々の送り火、但雨ふればのぶるなり、萬治三年庚子七月十六日雨天ゆえ、 東山の大もんじその外十七日にこれあり、松ヶ崎には妙法の二字を火にともす、やまに妙法といふ筆畫に杭をうち、松明を結つけて火をともしたるものなり、きた山には帆かけぶね、 浄土寺に大文字みなかくのごとし、大文字は三藐院殿の筆畫にて、きり石をたてたりといふ、筆勢ゆるやかにみゆ、一もんじの長さ三丈ばかりもやあるらん、」と記され、1660年(万治3年)の五山送り火が例年行われている旧暦の7月16日ではなく、雨天の為に1日伸びた旧暦の7月17日に行われたことが分かります。大文字は三藐院殿(さんみゃくいんどの)とも言われた公家・近衛信尹の筆画と記されています。近衛信尹は書道の近衛流・三藐院流を創始した能書家で、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)とともに「寛永の三筆」と称されました。近衛信尹の書風は力強い男性的なもので、筆線は潔く、豪快で、その人柄を彷彿させていると言われています。当時低俗化していた書道界に清新さを与えとも言われています。大文字では切り石が建てられ、その筆勢は緩やかで、「一」の長さが三丈あったことが記されています。ちなみに妙法では杭(くい)を打って松明を結び付けていたことも記されています。
なお「案内者」には鴨川の河川敷から大文字・妙法・船形を眺めている光景が記されているが、左大文字・鳥居形が記されていません。その為、左大文字・鳥居形は1662年(寛文2年)よりも後に始められたとも言われています。
●近衛信尹は1565年(永禄8年)11月23日に太政大臣・近衛前久と波多野惣七の娘の子・明丸をして生まれました。父・近衛前久は1568年(永禄11年)に足利義昭が室町幕府15代将軍になった際、室町幕府13代将軍・足利義輝の殺害や室町幕府14代将軍・足利義栄の将軍就任に便宜を図ったとされ、朝廷から追放されて関白を解任され、京都を離れて大坂の石山本願寺に下ったが、1575年(天正3年)に織田信長の奏上によって許されました。1577年(天正5年)に元服し、加冠役の織田信長から一字を与えられ、「信基」と名乗りました。1580年(天正8年)に内大臣になり、名前を「信基」から「信輔」に改名しました。1582年(天正10年)に織田信長が上洛し、6月1日に父・近衛前久らとともに本能寺を訪れ、翌6月2日に本能寺の変が起こって織田信長が自刀しました。1585年(天正13年)に左大臣になりました。関白・二条昭実と口論(関白相論)になり、同年7月に豊臣秀吉が関白に就任する口実を与えました。1591年(天正19年)に豊臣秀吉が甥・豊臣秀次に関白を譲ると700年続いた摂関家の伝統を潰したとして、孤立・苦悩を深め、1592年(文禄元年)に心の病から左大臣を辞しました。1592年(文禄元年)に豊臣秀吉が朝鮮に出兵する際に自らも朝鮮半島に渡ろうとしたことから第107代・後陽成天皇の勅勘を蒙り、薩摩国に配流されました。1596年(慶長元年)に勅許よって京都に戻り、1601年(慶長6年)に左大臣に復帰し、名前を「信輔」から「信尹」にに改名しました。1605年(慶長10年)に念願の関白・氏長者になったが、数か月後に関白を辞しました。近衛信尹は和歌・連歌・書画に長じ、書は青蓮院流を学び、近衛流・三藐院流に発展させました。書は本阿弥光悦・松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と言われました。なお近衛信尹は1614年(慶長19年)12月25日に亡くなりました。
【近衛信尹・大文字と五山送り火 備考】
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