神泉苑の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

神泉苑

神泉苑の歴史を時代別年表で紹介。

神泉苑の歴史を簡単にまとめています。神泉苑は824年(天長元年)に弘法大師・空海が淳和天皇の勅命により、北印度の無熱池の善女龍王を勧請して祈雨を行い、その後東寺が管轄する雨乞いの道場になったが起源と言われています。なお神泉苑歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(禁苑(宮中の庭))】

★神泉苑は元々、794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇(かんむてんのう)による平安京遷都(へいあんきょうせんと)の際、大内裏(だいだいり)南側に接する場所に造営された南北四町・東西二町の八町(南北約500メートル・東西約240メートル)の規模を有する禁苑(宮中の庭)でした。禁苑は大池・泉・小川・小山・森林などを取り込んで造営され、乾臨閣(けんりんかく)・右閣・左閣・西釣台・東釣台・滝殿・後殿などの宮殿が造営されました。その後800年(延暦19年)に桓武天皇が行幸し、802年(延暦21年)に雅宴(がえん)が催されたと言われています。また812年(弘仁3年)に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)が花宴の節(かえんのせち)を催したと言われています。嵯峨天皇は神泉苑に43回も行幸したことが記録されています。

【神泉苑創建(起源・由来)】

★824年(天長元年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の勅命により、北印度(天竺(てんじく))の無熱池の善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を勧請して祈雨を行い、その後東寺(とうじ)が管轄する雨乞いの道場になりました。東寺の弘法大師・空海と西寺の守敏(しゅびん)が祈雨の法を競って、弘法大師・空海が勝利しました。弘法大師・空海と守敏は823年(弘仁14年)に第52代・嵯峨天皇からそれぞれ東寺と西寺を賜りました。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★863年(貞観5年)に疫病が流行し、疫病を鎮める御霊会(ごりょうえ)が神泉苑で行われました。経典が読まれたり、雅楽・稚児の舞・雑技などが演じられ、天皇や民衆が見物したと言われています。
★869年(貞観11年)に八坂神社の祭礼・祇園祭の起源と言われる祇園御霊会が神泉苑で行われました。864年(貞観6年)の富士山の噴火・869年(貞観11年)の貞観地震が起こり、869年(貞観11年)に全国に疫病が流行したことから神泉苑南端(八坂神社御供社)に律令制度の国の数と同じ66本の鉾を立てて、八坂神社から神輿を出しました。
★平安時代前期に神泉苑は宗教的な霊場とされ、祈雨・止雨などの為に読経が行われたり、歌舞が奉納されたりしました。 源義経(みなもとのよしつね)の愛妾で、白拍子・静御前(しずかごぜん)による祈雨の舞や歌人・小野小町(おののこまち)による雨乞いの歌などが残されています。平安時代中期以降に神泉苑が灌漑用水としても利用されるようになりました。
★1180年(治承4年)に神泉苑が大風が吹いて荒廃したと言われています。
★平安時代末期に源義経と静御前が神泉苑で出会ったとも言われています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★建久年間(1190年~1199年)に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)が守覚法親王の命により、社殿を復興したと言われています。
★1221年(承久3年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))が鎌倉幕府2代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)の追討を謀った承久の乱(じょうきゅうのらん)が起こり、神泉苑が再び荒廃したが、その後六波羅探題北方(北殿)・北条泰時(ほうじょうやすとき)が復興しました。
★1333年(元弘3年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が側近で、西大寺の僧・智篋坊尊鏡を神泉苑大勧進職に任じ、長福寺を三条大宮に創建し、神泉苑の管理を託したと言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★室町時代中頃まで神泉苑は室町幕府と東寺の命によって掃除が行われていたが、1459年(長禄3年)頃には祈祷が行われず、田畑が広がり、芸能者の家が建てられていたと言われています。
★1498年(明応7年)に長福寺の永尊が開墾したとして罰せられ、東寺が直接管理したが、その後も田畑が広がり、東寺は費用を捻出する為に給田にしたと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★1601年(慶長6年)から江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が二条城を造営を開始し、神泉苑北側の敷地の大部分が二条城に取り込まれ、規模が大きく減少しました。
★1607年(慶長12年)から神泉苑の規模縮小を悲しんだ板倉勝重(いたくらかつしげ)・片桐且元(かたぎりかつもと)・快我上人(かいがしょうにん)が朝廷の許しを得て、堂塔を整備し、東寺管轄の寺院として再興しました。神泉苑は寺領40石が認められました。
★1788年(天明8年)の天明の大火により、多宝塔などの堂塔が焼失しました。その後数十年を掛けて堂塔が再建されました。
★1847年(弘化4年)に東寺の大元帥堂を護摩堂跡に移築し、本堂が再建されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★1935年(昭和10年)に神泉苑が国の史跡に指定されました。
★2014年(平成26年)に善女竜王勧請1,200年記念事業として、法成就池の水を55年振りに抜き、善女竜王社本殿の解体・修復を行ないました。

【弘法大師・空海:神泉苑開山】

弘法大師・空海は774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で佐伯直田公と阿刀大足の妹の間に生まれました。789年(延暦8年)に母方の叔父・阿刀大足のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に官僚育成機関である大学寮に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗の僧で、東大寺別当・勤操のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺の恵果のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位の灌頂を受け、遍照金剛の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)に高野山で亡くなりました。

【神泉苑歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・神泉苑(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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