祇園祭ちまきは蘇民将来が授かった茅の輪が起源

祇園祭ちまき(厄除け粽)
祇園祭ちまきは蘇民将来が牛頭天王から授かった茅の輪が起源です。蘇民将来は牛頭天王が旅に出た際、貧しかったが、丁重にもてなしました。牛頭天王は報いる為に蘇民将来を訪れ、後世に疫病が流行すれば、蘇民将来の子孫と言い、茅の輪を腰に着けておけば免れさせると約束しました。
★祇園祭最新情報。
【祇園祭ちまき販売 日程時間(要確認)】
祇園祭ちまき販売は下記の通りです。ただ日程は山鉾によって異なります。なおネットで販売する山鉾町もあります。
- 祇園祭ちまき販売(前祭)・・・例年7月13日~7月16日
- 祇園祭ちまき販売(後祭)・・・例年7月20日~7月23日
●祇園祭の主要行事の日程を確認できます。(下記リンク参照)
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【蘇民将来(そみんしょうらい) 祇園祭ちまき】
祇園祭ちまき(厄除け粽)は蘇民将来が牛頭天王から授かった茅の輪(ちのわ)が起源です。蘇民将来は鎌倉時代中期に神祇権大副(じんごんのたいふ)・卜部兼方(うらべのかねかた)が記した「釈日本紀(しゃくにほんぎ)・鎌倉時代末期成立」の中に記されている「備後国風土記(びんごのくにふどき)」逸文(いつぶん)に登場します。「釈日本紀」には「備後國風土記曰 疫隅國社 昔 北海坐志武塔神 南海神之女子乎與波比爾出 座爾日暮 彼所將來二人在伎 兄蘇民將來 甚貧窮 弟將來富饒 屋倉一百在 伎 爰武塔神 借宿處 惜而不借 兄蘇民將來借奉 即以粟柄爲座 以 粟飯等饗奉 爰畢出坐 後爾經年 率八柱子還來天詔久 我將來之爲報 答 汝子孫其家爾在哉止問給 蘇民將來答申久 己女子與斯婦侍止申 即詔久 以茅輪 令着於腰上 隨詔令着 即夜爾 蘇民之女子一人乎置天 皆悉 許呂志保呂保志天伎 即詔久 吾者 速須佐雄能神也 後世爾疫氣在者 汝蘇民 將來之子孫止云天 以茅輪着腰在人者 將免止詔伎」と記されています。
備後国風土記逸文の内容は昔、武塔神(むたのかみ・牛頭天王)が南海の神の娘と結婚する為に旅に出た際、日が暮れたことから宿を求め、貧しい兄・蘇民将来と裕福な弟・巨端将来(こたんしょうらい・巨旦将来)を尋ねました。裕福な巨端将来は家や蔵を100ほど持っていたが、貸すのを惜しんで断りました。貧しい蘇民将来は粟柄(あわがら)を敷物とし、粟飯(あわめし)などで丁重にもてなしました。その後武塔神(牛頭天王)は報いる為に八柱の子(やはしらのみこ)とともに蘇民将来を再び訪れ、子孫がいるかと訪ねると蘇民将来は娘と妻がいると答え、武塔神は「茅の輪を腰の上に着けよ」と言いました。その言葉に従って茅の輪を腰の上に着け、その夜に蘇民将来の娘を除き、みんな滅ぼされました。武塔神は「私は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疫病が流行すれば、蘇民将来の子孫と言い、茅の輪を腰に着けておけば免れさせる」と約束しました。この茅の輪が祇園祭ちまき(厄除け粽)の起源・由来になったと言われています。祇園祭ちまき(厄除け粽)には護符「蘇民将来子孫也」が付けられています。
【牛頭天王(ごずてんのう) 祇園祭ちまき】
祇園祭ちまき(厄除け粽)の起源となった茅の輪を蘇民将来に授けた牛頭天王は神仏習合の神で、仏教の開祖・お釈迦さまが説法を行った祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神とされていました。祇園精舎は八坂神社の旧名である「祇園神社」・「祇園社」・「祇園感神院」や祇園祭の由来にもなっています。牛頭天王は東方浄瑠璃世界(とうほうじょうるりせかい)の教主・薬師如来(やくしにょらい)の垂迹(すいじゃく)で、素戔嗚尊の本地とされました。また牛頭天王は陰陽道(おんみょうどう)で方角神である天道神や蘇民将来の説話で武塔神とも同一視されていました。八坂神社ではかつて牛頭天王を中御座に祀っていたが、明治維新後の神仏判然令により、牛頭天王と同一視されていた素戔嗚尊を中御座に祀っています。素戔嗚尊は日本最古の正史「日本書紀・720年(養老4年)完成」によると父・伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と母・伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟とされています。素戔嗚尊は父から海原の支配を命じられたが、使命を果たさなかったことから根の国に追放されました。高天原に天照大神を訪ねたが、高天原で乱暴を行った為、天照大神が怒って天の岩戸(あまのいわと)に隠れ、高天原から追放されました。素戔嗚尊は出雲の簸川(ひのかわ)のほとりに降り、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、救った櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)と結婚し、出雲の祖神になりました。また素戔嗚尊は八岐大蛇の尾から得た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を天照大神に献じました。
【蘇民将来の説話 祇園祭ちまき】
祇園祭ちまき(厄除け粽)の起源・由来に関わる蘇民将来の説話は京都や祇園祭だけでなく、各地や各地の祭りなどに受け継がれています。
- 蘇民将来は岩手県奥州市・黒石寺の蘇民祭(そみんさい)の起源になっています。蘇民祭は平安時代中期に蘇民信仰に基づいて始り、1,200年以上の歴史があるとも言われています。蘇民袋争奪戦では将軍木で作った六角柱の小間木(蘇民将来護符)が詰まった蘇民袋が切り裂かれると厄災を免れると言われる小間木を下帯の姿の若者が奪い合います。また空になった蘇民袋も奪い合い、最後に蘇民袋の首部分を握っていた者が取主となります。ちなみに蘇民祭は国の選択無形民俗文化財に指定されています。
- 蘇民将来は三重県伊勢地方・志摩地方の注連縄(しめなわ)の起源になっています。伊勢地方・志摩地方では家の門口に「蘇民将来之子孫」などと書いた注連縄を掛け、災厄除けにしています。
- 蘇民将来は蘇民将来の護符の起源になっています。日本各地では蘇民将来の護符が授与され、単に護符を蘇民将来とも言うこともあります。蘇民将来の護符には紙札・木札・茅の輪・ちまき・角柱など様々な形態・材質・形状のものがあります。長野県上田市の信濃国分寺八日堂や埼玉県飯能市の竹寺では一般によく知られた六角柱のこけし型になっています。
【祇園祭ちまき(厄除け粽) 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
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