祇園祭と牛頭天王・卜部日良麿・円融天皇
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祇園祭と牛頭天王・卜部日良麿・円融天皇
祇園祭は牛頭天王(ごずてんのう)・卜部日良麿(うらべのひらまろ)・円融天皇(えんゆうてんのう)にゆかりがあります。牛頭天王はお釈迦さまが説法を行った祇園精舎(ぎおんしょうじゃ )の守護神とされ、八坂神社のかつての社名・祇園社(祇園感神院)や祇園祭の名称の由来になっています。現在も「祇園さん」とも言われています。
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
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【牛頭天王・素戔嗚尊 祇園祭】
牛頭天王(ごずてんのう)は神仏習合の神で、お釈迦さまが説法を行った祇園精舎(ぎおんしょうじゃ ・祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ))の守護神とされていました。牛頭天王は東方浄瑠璃世界(東方の浄土)の教主・薬師如来(やくしにょらい・薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい))の垂迹(すいじゃく)で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の本地(ほんじ)とされました。また牛頭天王は陰陽道(おんみょうどう)で方角神である天道神(てんどうじん)や蘇民将来(そみんしょうらい)の説話で武塔神(むとうしん・武塔天神(むとうてんじん))とも同一視されていました。牛頭天王は明治時代の神仏判然令以前、八坂神社の中御座に祀られていました。現在八坂神社ではかつて牛頭天王と同一視されていた素戔嗚尊を中御座に祀っています。素戔嗚尊は日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・奈良時代成立」によると父・伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と母・伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟とされています。素戔嗚尊は出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、救った櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)と結婚し、出雲の祖神になったとされています。素戔嗚尊は結婚した際、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を(幾重にも雲が湧き出す出雲で、妻との新居によい場所を見つけたので、幾重にも垣根を造ろう)」と和歌を詠んだと言われています。また素戔嗚尊は乱暴で、恐れた天照大神が天の岩戸(あまのいわと)に隠れ、世の中は暗闇になり、困った八百万神(やそよろづのかみ)が天安河の河原に集まって大宴会を行って岩戸を開かせたと言われています。
素戔嗚尊は祇園祭の神幸祭(しんこうさい)・還幸祭(かんこうさい)の際、六角形の屋根の上に鳳凰が飾られ、男神を表す紫色の袈裟懸けが掛けられた中御座神輿(なかござみこし)に神霊がのせられます。ちなみに中御座神輿は重さ約2トンで、三若神輿会(さんわかしんよかい)が奉仕することから三若神輿とも言われています。
【卜部日良麿(卜部平麻呂) 祇園祭】
卜部日良麿(うらべのひらまろ・卜部平麻呂(うらべのひらまろ))は平安時代初期の807年(大同2年)に伊豆国に誕生したとも言われているが、その出自は明確ではありません。卜部日良麿は幼い頃にカメの甲羅である亀甲(きっこう)を焼いて熱を加え、現れたヒビの亀裂の形(卜兆)で吉凶を占う亀卜(きぼく)を習得し、朝廷の祭祀を司る神祇官(じんぎかん)の卜部(うらべ)になりました。卜部日良麿は卜術(ぼくじゅつ)に優れていたことから838年(承和5年)の遣唐使に加わって唐(中国)に渡り、翌839年(承和6年)に帰国し、神祇大史(じんぎだいし)・神祇少佑(じんぎしょうじょう)などに任じられ、857年(斉衡4年)に外従五位下に叙せられました。858年(天安2年)に神祇権大佑(じんぎごんたいじょう)に任ぜられて宮主(みやじ)を兼ね、866年(貞観8年)に三河権介(みかわごんのすけ)に任ぜられ、868年(貞観10年)に内従五位下に叙せられました。その後備後介(びんごのすけ)・丹波介(たんばのすけ)などの地方官を歴任し、名前を真雄から平麻呂に改名しました。なお卜部日良麿は881年(元慶5年)12月5日に亡くなりました。
【第64代・円融天皇 祇園祭】
第64代・円融天皇(えんゆうてんのう)は970年(天禄元年)に祇園祭を毎年行うように勅命したり、974年(天延2年)に祇園祭の神輿が鴨川を渡って平安京を渡御するように勅命したりしたとも言われています。また第64代・円融天皇は八坂神社によると975年(天延3年)6月15日に走馬・勅楽・御幣を奉られ、以後祇園臨時祭が6月15日に継続執行されるようになったとも言われています。なお第64代・円融天皇は平安時代中期の959年(天徳3年)4月12日(旧暦3月2日)に第62代・村上天皇(むらかみてんのう)を父、右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の娘・藤原安子(ふじわらのあんし)を母とし、村上天皇の第5皇子・守平親王(もりひらしんのう)として生まれ、964年(応和4年)に母・藤原安子が亡くなるとその妹・藤原登子(ふじわらのとうし)に育てられました。967年(康保4年)7月5日(旧暦5月25日)に兄・憲平親王(のりひらしんのう)が第63代・冷泉天皇(れいぜいてんのう)として即位すると立太子され、969年(安和2年)9月27日(旧暦8月13日)に第63代・冷泉天皇が譲位すると同日に守平親王が数え年11歳で第64代・円融天皇として即位しました。その後984年(永観2年)9月24日(旧暦8月27日)に第65代・花山天皇(かざんてんのう)に譲位し、985年(寛和元年)に落飾して金剛法(こんごうぼう)と号し、仁和寺(にんなじ)の一院である御願寺(ごがんじ)・円融寺(えんゆうじ・円融院)に住し、991年(正暦2年)3月1日(旧暦2月12日)に崩御しました。