須賀神社節分祭-2025年の節分は2月2日(日程時間・・・)
須賀神社節分祭
須賀神社節分祭(日程・時間・・・)を紹介しています。節分祭は例年節分(立春の前日)とその前日に行われています。節分祭では追儺招福豆まきが行われます。節分祭では烏帽子・水干に白い布で顔を隠した懸想文売りが梅の枝に文を付けた懸想文(恋文)を売り歩きます。ちなみに梅は別名・好文木とも言われ、懸想文に合っています。(詳細下記参照)
【須賀神社節分祭2024 日程時間(要確認)】
須賀神社節分祭2024は2024年(令和6年)2月2日(金曜日)・3日(土曜日)10:00~20:00に行われます。過去のタイムテーブルは2日15:00から追儺招福豆まきです。(現在確認中・要注意)
●京都の寺院・神社では節分・豆まきなどの行事が行われています。
京都節分・豆まき2025
【須賀神社節分祭 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市左京区聖護院円頓美町1
最寄り駅・バス停・・・熊野神社前(徒歩約5分)
アクセス路線は次の通りです。
*京都駅から須賀神社は206系統(D2乗り場)
*四条河原町からは31系統、201系統、203系統
*四条烏丸からは31系統、201系統、203系統
*河原町丸太町からは204系統
路線・時刻表・運賃チェック
【須賀神社節分祭 歴史・簡単概要】
須賀神社節分祭(せつぶんさい)は例年節分(立春の前日)とその前日に行われています。(節分は毎年2月3日ではなく、変動する場合があります。)節分祭では厄除け・招福を祈願します。
節分祭では追儺招福豆まき(ついなしょうふくまめまき)が行われます。節分祭では烏帽子(えぼし)・水干(すいかん)に白い布で顔を隠した懸想文売り(けそうぶみうり)が梅の枝に文を付けた懸想文(恋文)を売り歩きます。ちなみに梅は別名・好文木(こうぶんぼく)とも言われ、懸想文に合っています。なお節分祭では須賀多餅も売られます。(要確認)
●懸想文売りは平安時代に貴族が顔を隠し、懸想文の代筆をしたのが起源とされています。ちなみに懸想文は恋心を書き綴った恋文・艶書(えんしょ)です。現在は艶書に似せ、縁起を祝う文言が書かれています。なお懸想文は鏡台や箪笥に入れて置くと容姿端麗になり、良縁に恵まれ、衣装も増えるご利益があるとも言われています。
●節分は元々季節が変わる節目で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を差していたが、江戸時代以降は立春の前日だけを指す場合が多くなりました。節分には邪気悪霊(鬼)が外から入ってくるのを防ぐ為、「鬼は外・福は内」と言いながら福豆を撒き、年の数だけ福豆を食べて厄除けをします。豆撒きは平安時代中期に鞍馬山の鬼が都を荒らしたことから毘沙門天のお告げにより、鬼の穴を祈祷で封じ、鬼の目を炒り豆で打ちつぶしたということに由来しています。豆などの穀物には魔除けの呪力や生命力を持つという穀霊が宿っているとも言われています。豆は鬼の目を表す「魔目(まめ)」から鬼を滅する「魔滅」を意味するようになったそうです。
●追儺は平安時代初期から大晦日に宮中で行われている鬼払いの儀式です。追儺は鬼やらい・鬼遣らい・儺(な)やらい・鬼儺・大儺(たいだ)・駆儺(くだ)などとも言われています。追儺では黄金四つ目の面を付け、右手に矛、左手に楯を持った方相氏(ほうそうし)などが大内裏の中を「鬼やらう」と大声を掛けながら鬼を追い払って回りました。ただその後方相氏は追い払う側から追い払われる側に変わったそうです。なお追儺は文武天皇(697年~707年) の時代に中国から伝わったとも言われています。
【須賀神社 歴史・簡単概要】
須賀神社は1142年(康治元年)に鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇)の后・美福門院(藤原得子)が創建した御願寺・歓喜光院の鎮守として造営されました。須賀神社はかつて平安神宮の境内にあり、岡崎の東天王社(岡崎神社)と相対して、西天王社(西天皇社)と言われていました。その後鎌倉時代末期に鎌倉幕府第14代執権で、北条氏得宗家当主・北条高時の反乱によって吉田神楽岡・吉田大元宮西下に移ったが、1924年(大正13年)には現在の場所に移り、聖護院一帯の産土神とされました。1964年(昭和39年)に交通神社を分祀して社殿が造営されました。なお須賀神社は素戔嗚尊・櫛稲田比売命、交通神社は久那斗神・八衢比古神・八衢比売神を祀っています。
*参考・・・須賀神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia
【須賀神社節分祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
須賀神社(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報