東北院の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

東北院の歴史を時代別年表にまとめ

東北院の歴史を簡単にまとめています。東北院は1030年(長元3年)に太政大臣・藤原道長の長女で、第66代・一条天皇の中宮・上東門院(藤原彰子)の発願により、父・藤原道長が創建した法成寺内に常行三昧堂が建立されたのが起源です。(時代別年表・重要人物下記参照)

東北院(アクセス・歴史・・・)

【法成寺(ほうじょうじ)】

●法成寺は1020年(寛仁4年)に浄土信仰に傾倒した太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)が奈良・東大寺(とうだいじ)を模して九体阿弥陀堂(無量寿院(むりょうじゅいん))の建立を始め、2年後の1022年(治安2年)に完成して寺号を法成寺に改めたのが起源です。法成寺は平安京の東京極通(ひがしきょうごくどおり・東京極大路)を挟んで、藤原道長の主邸・土御門殿(つちみかどどの・土御門第(つちみかどだい))の東側に位置し、京極御堂と称されました。また平安京外の東に位置したことから北東院とも言われました。当初の寺域は二町四方だったが、その後に南北三町・東西二町に拡大され、北側は広小路通(ひろこうじどおり)、西側は京都御所東、東側は鴨川西、南側は荒神口通(こうじんぐちどおり)南でした。法成寺には金堂・薬師堂・釈迦堂・五重塔などの伽藍が建立されました。1027年(万寿4年)に藤原道長は阿弥陀仏に五色の糸を結び、念仏の声に包まれて亡くなったと伝えられています。1058年(天喜6年)に火災で焼失したが、その後藤原道長の子・藤原頼通(ふじわらのよりみち)と孫・藤原師実(ふじわらのもろざね)が再建しました。1185年(元暦2年)に地震に見舞われ、1219年(承久元年)に焼失し、その後鎌倉時代末期に廃絶したと言われています。

【東北院の起源・始まり】

●東北院は1030年(長元3年)に太政大臣・藤原道長の長女で、第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)の中宮・上東門院(じょうとうもんいん・藤原彰子(ふじわらのしょうし))の発願により、父・藤原道長が創建した法成寺内に常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)が建立されたのが起源です。東北院の寺号は常行三昧堂が法成寺の東北に位置することと上東門院の母で、藤原道長の正室・源倫子(みなもとのりんし)が建立した常行三昧堂が法成寺の西北に位置し、西北院と言われたことに由来しています。同年8月21日に完成を祝って供養法会(くようほうえ)が行われ、供養法会は御斎会に準じた大規模な国家的行事でした。その後藤原彰子(上東門院)は東北院を在所と定めて居住しました。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●1040年(長暦4年)に内裏(だいり)が火災に見舞われた際に仮御所になったと言われています。
●1050年(永承5年)に上東門院が母親代わりを務めた孫で、第70代・後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)が上東門院に会う為に行幸しました。
●1058年(天喜6年)に法成寺の火災で焼失しました。
●1061年(康平4年)に法成寺の北側(上京区北之辺町付近)に移って再建されました。
●1064年(康平7年)に後冷泉天皇が再建された東北院に行幸しました。また同年に内裏が火災に見舞われた際に仮御所になったと言われています。
●平安時代中期に中古三十六歌仙・和泉式部(いずみしきぶ)が軒端の梅(のきはのうめ)を植えました。現在の軒端の梅は3代目とも言われています。
●1171年(承安元年)に火災で護摩堂・不断経所などを除き、伽藍の多くが焼失しました。仏像・経典などは西北院に移されました。その後同年に再建されました。
●1174年(承安4年)から始まった念仏会が風物詩になり、1214年(建保2年)の念仏会で行われた歌合が「東北院職人歌合絵巻(重要文化財)」に描かれました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

●室町時代に七福神信仰の高まり、平安時代前期頃に天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)が刻んだと言われる2尺3寸の弁財天(べんざいてん)像が信仰を集めました。
●1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、多くの伽藍が焼失し、千手堂など堂宇を残して廃寺同然になったと言われています。

【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】

●1559年(永禄2年)に時宗(じしゅう)の僧・弥阿が残された弁財天を本尊として再建し、時宗に改めました。
●1570年(元亀元年)に兵火で焼失しました。
●戦国時代に第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅命によって再建されました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

●天正年間(1573年~1593年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が寺領6石を与えたと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●1633年(寛永10年)に「時宗藤沢遊行末寺帳」によると清浄光寺(遊行寺)の末寺だったと言われています。
●1692年(元禄5年)に火災で焼失し、翌1693年(元禄6年)に真如堂(しんにょどう・真正極楽寺(しんしょうごくらくじ))や四軒寺(よんけんでら)などとともに現在の場所に移りました。開基・上東門院(藤原彰子)の子で、第68代・後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の菩提樹院陵近くに移りました。
●1770年(明和7年)に安津宮御所の建物を賜って移築したと言われています。

【東北院の開基である上東門院(藤原彰子)】

上東門院(藤原彰子)は988年(永延2年)に太政大臣・藤原道長と左大臣・源雅信の娘・源倫子の間に長女として土御門殿で生まれました。990年(正暦元年)に袴着が行われ、999年(長保元年)に従三位に叙せられました。同年に第66代・一条天皇の後宮に入内し、女御宣下を受け、1000年(長保2年)に第66代・一条天皇の中宮になりました。ただ一条天皇には藤原道隆の娘・定子が中宮になっていたことから二后併立の為に定子が皇后、彰子が中宮とされました。定子は兄弟である藤原伊周・藤原隆家の長徳の変により、996年(長徳2年)に出家して公務が滞っていました。1008年(寛弘5年)に敦成親王(第68代・後一条天皇)、1009年(寛弘6年)に敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を産みました。1012年(寛弘9年)に皇太后、1018年(寛仁2年)に太皇太后宮になりました。1026年(万寿3年)に出家し、上東門院の院号宣下を受けました。上東門院(藤原彰子)は紫式部・和泉式部・伊勢大輔・赤染衛門らの才媛を集め、女流文学全盛期の中心になりました。なお上東門院(藤原彰子)は1074年(延久6年)に亡くなりました。

【東北院の歴史 備考】
*参考・・・東北院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia

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