東北院の梅見ごろ2025(時期:2月中旬~3月中旬頃)
東北院の梅見ごろ・アクセス・概要
東北院の梅見ごろ(時期・イベント等)を紹介しています。東北院の梅見ごろは例年2月中旬頃から3月中旬頃です。東北院では本堂前に軒端の梅が植えられ、軒端の梅と本堂などの光景が歴史を感じさせます。軒端の梅はかつて平安時代に中古三十六歌仙・和泉式部が法成寺内に建立されていた東北院に手植えした梅の木の子孫とも言われています。(詳細下記参照)
【東北院の梅見ごろ(例年時期)】
東北院の梅見ごろは例年2月中旬頃から3月中旬頃です。なお梅の開花状況や見ごろ(満開)はその年の気候などによって多少前後することがあります。
京都梅見ごろ2025(北野天満宮・梅宮大社・・・)
【東北院梅 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市左京区吉田神楽岡町
最寄り駅・バス停・・・錦林車庫前(徒歩約8分)、真如堂前(徒歩約10分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅からは5系統(A1乗り場)、17系統(A2乗り場)、100系統(D1乗り場)
*四条河原町からは5系統、17系統、32系統、203系統
*四条烏丸からは5系統、203系統
*河原町丸太町からは204系統
路線・時刻表・運賃チェック
【東北院の梅見ごろ(例年時期) 概要】
東北院はあまり知られてない梅の名所です。東北院の梅見ごろは例年2月中旬頃から3月中旬頃です。
東北院では本堂前に軒端の梅(のきはのうめ)が植えられ、軒端の梅と本堂などの光景が歴史を感じさせます。軒端の梅は樹高約7メートル・根の周囲約2メートルの白梅で、地上約7メートルで3つの支幹に分かれ、心材が腐朽しいているが、1本だけ花を咲かせ、実を結ぶそうです。軒端の梅はかつて平安時代(794年~1185年)に中古三十六歌仙・和泉式部(いずみしきぶ)が法成寺(ほうじょうじ)内に建立されていた東北院に手植えした梅の木の子孫(3代目)とも言われています。
和泉式部が梅の花を愛でて詠んだ和歌「むめ(梅)の香(か)を 君によそへて みるからに 花のをりしる 身ともなるかな(和泉式部続集)」・「むめ(梅)が香(か)に おどろかれつつ 春の夜の 闇こそ人は あくがらしけれ(千載和歌集)」が残されています。
- 和泉式部は東北院を建立した太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘で、第66代・一条天皇の皇后(中宮)・上東門院(じょうとうもんいん・藤原彰子(ふじわらのしょうし))に仕え、上東門院が東北院に居住すると東北院内の小堂に住んでいたと言われています。ちなみに和泉式部は大江雅致の娘で、和泉守・橘道貞と結婚し、小式部内侍を生んだが、その後道貞とは別居しました。後冷泉天皇の第3皇子・為尊親王やその弟・敦道親王から求愛されたり、道長四天王と称された藤原保昌と再婚したりし、その恋愛遍歴から関白・藤原道長からは「浮かれ女」と評されたり、紫式部(むらさきしきぶ)の「紫式部日記」には「和泉式部という人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ」と記されたりしました。
- 軒端の梅は世阿弥(ぜあみ)作の謡曲「東北」に登場します。「東北」は旅の僧侶が梅名所である東北院に行くとひとりの女性が現れ、梅は和泉式部が植えたことを知ります。僧侶は女性が和泉式部であることを悟り、お経を唱えると和泉式部が歌舞の菩薩(ぼさつ)となって現れ、和歌の徳・仏法のありがたさを説くというものです。
●京都で人気の梅名所・見ごろを紹介しています。由緒なども確認できます。(下記リンク参照)
京都梅名所・見ごろ
【東北院 歴史・簡単概要】
東北院は1030年(長元3年)に太政大臣・藤原道長の長女で、第66代・一条天皇の中宮・上東門院(藤原彰子)の発願により、父・藤原道長が創建した法成寺内に常行三昧堂が建立されたのが起源です。東北院の寺号は常行三昧堂が法成寺の東北に位置することと上東門院の母・源倫子が建立した常行三昧堂が法成寺の西北に位置し、西北院と言われたことに由来しています。その後上東門院は東北院を在所と定めて居住しました。1058年(天喜6年)に法成寺の火災で焼失し、1061年(康平4年)に法成寺の北側に移って再建されました。平安時代中期に中古三十六歌仙・和泉式部が軒端の梅を植えました。1171年(承安元年)に火災で護摩堂・不断経所などを除き、伽藍の多くが焼失しました。1174年(承安4年)から始まった念仏会が風物詩になり、「東北院職人歌合絵巻」に描かれました。室町時代に七福神信仰の高まり、平安時代前期頃に天台宗の宗祖である伝教大師・最澄が刻んだと言われる2尺3寸の弁財天像が信仰を集めました。1467年(応仁元年)に応仁の乱で多くの伽藍が焼失し、廃寺同然になったと言われています。1559年(永禄2年)に時宗の僧・弥阿が残された弁財天を本尊として再建し、時宗に改めました。1570年(元亀元年)に兵火で焼失したが、その後第106代・正親町天皇の勅命によって再建されました。1692年(元禄5年)に火災で焼失し、翌1693年(元禄6年)に真如堂(真正極楽寺)などとともに現在の場所に移りました。1770年(明和7年)に安津宮御所の建物を賜って移築したと言われています。
*参考・・・東北院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia
【東北院梅 備考】
東北院(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報