比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)・織田信長と祇園祭

比叡山焼き討ち・織田信長と祇園祭

織田信長は1568年(永禄11年)に室町幕府15代将軍・足利義昭を擁して上洛し、その後浅井長政・朝倉義景と対立するようになり、延暦寺が浅井・朝倉連合軍を比叡山に匿ったことなどから織田信長と対立するようになりました。1571年(元亀2年)9月12日の比叡山焼き討ち前から織田信長の近江国(滋賀)への進軍が噂され、祇園祭の延期に影響を与えました。

【祇園祭2026 日程】
祇園祭2026は2026年(令和8年)7月1日(水曜日)の吉符入から2026年(令和8年)7月31日(金曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2026日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)

【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)

【比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)・織田信長】
織田信長は1568年(永禄11年)に室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、京都周辺を制圧しました。その後1570年(元亀元年)に織田信長と浅井長政(あざいながまさ)・朝倉義景(あさくらよしかげ)が対立し、延暦寺(えんりゃくじ)が浅井・朝倉連合軍を比叡山に匿ったことなどから織田信長と対立するようになりました。1571年(元亀2年)に織田信長が敵対する延暦寺に対し、味方になるか、それが嫌なら中立を保つようにと度々通達したが、延暦寺が拒否した為、織田信長は延暦寺と対立していた園城寺(おんじょうじ・三井寺(みいでら))に本陣を置き、延暦寺を取り囲んで焼き討ちを行いました。「信長公記(しんちょうこうき」には「元亀二年九月十二日 叡山を取詰、根本中堂三王廿一社を初奉り、霊仏霊社、僧坊経巻、一宇も残さず、時に雲霞の如く焼払灰燼の地となるこそ哀なれ。山頭において其の隠れなき高僧貴僧有智之僧と申、其外美女童其の員知れず召捕御前へ召つれ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、是は御扶け成され候へと声々に申上候といへども、中々御許容なく、一々に頚を打落され、目も当られぬ有様也。数千之屍、算を乱し、哀れなる仕合也」と記され、延暦寺の本堂である根本中堂などの堂塔伽藍(がらん)や山王二十一社をはじめ、一宇も残さずに焼き払ったことが分かります。また高僧・貴僧などの僧侶など数千名が殺害されました。
比叡山焼き討ちは1571年(元亀2年)9月12日に行われたが、その前年1570年(元亀元年)から織田信長と浅井長政・朝倉義景・延暦寺の対立が激しくなり、1571年(元亀2年)には戦の前夜のように不穏の空気が漂っていたようです。山科言継(やましなときつぐ)の日記「言継卿記」1571年(元亀2年)6月14日の条に「十四日、丙寅、天晴。祇園会(祇園祭)、今日神輿洗等事、依世上不穏、神事等一切延引云々。」と記され、世の中が不穏の為に祇園祭の神輿洗(みこしあらい)などの神事が延期されたことが分かります。織田信長が近江国(滋賀)に進軍するという噂が流れていたと言われています。「言継卿記」1571年(元亀2年)12月7日の条に「山王祭(日吉祭)雖無之、日吉社・山上等無之間、以上意行之」と記され、日吉大社(ひよしたいしゃ)の山王祭が行われず、12月7日に祇園祭が上意で行われたことが分かります。八坂神社は延暦寺の末寺、延暦寺の守護神である日吉大社の末社とされ、比叡山焼き討ち以前から強い影響を受けていました。比叡山焼き討ち後、八坂神社・祇園祭への延暦寺・日吉大社の影響力が減少したと言われています。

●比叡山焼き討ちは1571年(元亀2年)9月12日(新暦9月30日)に起こりました。比叡山焼き討ちの一因には織田信長が比叡山領を横領し、1569年(永禄12年)に天台座主・応胤法親王が朝廷に寺領回復を働き掛け、回復の綸旨が下されたが、織田信長は拒否したことがあります。1570年(元亀元年)4月に浅井長政が織田信長に反旗を翻して朝倉義景と連合し、浅井氏・朝倉氏は6月の姉川の戦いで一時敗退したが、9月に織田信長の弟・織田信治が戦死し、浅井氏・朝倉氏の一部が延暦寺を拠点として織田信長に抵抗しました。11月に本願寺の顕如による長島一向一揆で織田信長の弟・織田信興が自害しました。織田信長は信長包囲網(浅井氏・朝倉氏・本願寺・三好三人衆・雑賀衆など)の中、1571年(元亀2年)9月11日に織田信長は坂本・園城寺(三井寺)周辺に進軍し、園城寺山内にある山岡景猶の屋敷に本陣を置いたと言われています。翌12日に攻撃を開始し、先ず比叡山の麓にある坂本・堅田周辺を放火し、その後延暦寺の堂塔伽藍など比叡山一山をことごとく焼き払い、数千名の僧俗男女を皆殺しにしました。「言継卿記」によると3、4,000名が殺害されたと言われています。なお1582年(天正10年)の本能寺の変後、関白・豊臣秀吉や江戸幕府初代将軍・徳川家康の寄進で延暦寺は復興し、寛永年間(1624年~1644年)に旧観に復しました。
●山科言継は1507年(永正4年)6月6日に山科言綱と宮中に仕える身分の低い女嬬の間に生まれました。10歳で元服し、13歳で従五位下・内蔵頭に叙任されました。その後左中将・左兵衛督・参議・左衛門督・加賀権守などを歴任し、1533年(天文2年)に楽奉行として朝廷の雅楽を管掌しました。1544年(天文13年)に権中納言に任じられ、1569年(永禄12年)に正二位・権大納言に任じられました。山科言継は徳川家康・織田信長などの戦国武将から献金を募り、衰微していた朝廷経済の立て直しに尽力しました。また山科言継は有職故実・医薬に通じ、副業として庶民に医薬を施療しました。更に山科言継は町衆に音曲・舞踊を指導し、祇園祭・風流などの庶民文化にも貢献しました。なお山科言継は1579年(天正7年)3月28日に亡くなりました。

【比叡山焼き討ち・織田信長と祇園祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2026日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)

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