光悦寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

光悦寺の歴史を時代別年表にまとめ
光悦寺の歴史を簡単にまとめています。光悦寺は1615年(元和元年)に本阿弥光悦が徳川家康から土地を与えられ、草庵を結んで法華題目堂を建立したのが起源です。本阿弥光悦は本阿弥家の先祖供養の為に位牌堂も建立したと言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【光悦村(こうえつむら)】
●光悦寺が建立されている場所は1615年(元和元年)に書家・陶芸家・芸術家である本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)から南北7町・東西200間の鷹峰(たかがみね)の土地を賜り、本阿弥一門とその家職につながる集団とともに移住した光悦村の一部です。なお本阿弥光悦は慶長年間(1596年~1615年)にこの地に別宅を構えていたが、「本阿弥行状記」によると辻斬り(つじぎり)や追い剥ぎ(おいはぎ)などがの出没する物騒な土地だったと言われています。
【光悦寺の起源・始まり】
●光悦寺は1615年(元和元年)に本阿弥光悦が徳川家康から土地を与えられ、草庵を結んで法華題目堂(ほっけだいもくどう)を建立したのが起源です。本阿弥光悦は本阿弥家の先祖供養の為に位牌堂も建立したと言われています。当初、大虚庵(たいきょあん)と号したとも言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●1616年(元和2年)に本阿弥光悦と養子・本阿弥光嵯(ほんあみこうさ)が法華の鎮所(ほっけのちんじょ)を建立し、日乾上人(にちけんしょうにん)を招聘して、光悦寺近くに常照寺(じょうしょうじ)を創建しました。
●1618年(元和4年)に本阿弥光悦の母・妙秀が亡くなり、その後妙秀寺が創建されました。
●1637年(寛永14年)に本阿弥光悦が亡くなると草庵が寺院に改められ、本阿弥光悦の墓碑が建立されたと言われています。
●1656年(明暦2年)に法華題目堂と屋敷が日蓮宗(にちれんしゅう)の本法寺(ほんぽうじ)12世・正教院日慈(にちじ)を開山として光悦寺に改められたと言われています。なお本法寺は寺伝によると1436年(永享8年)に日蓮宗(にちれんしゅう)の僧・久遠成院日親上人(にっしんしょうにん)が本阿弥光悦の曾祖父・清信の帰依により、弘通所を東洞院綾小路に創建したが起源とも言われています。
●明暦年間(1655年~1658年)に本阿弥光悦の孫・光伝が土地の一部を寄進し、光悦寺近くに法華堂唱道場の知足庵真浄堂を建立しました。
●1692年(元禄5年)に鐘楼が建立されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1884年(元和2年)に妙秀寺を合寺しました。
●明治時代に荒廃したが、大正時代に復興されました。
●大正時代に大虚庵・三巴亭・了寂軒・徳友庵・本阿弥庵・騎牛庵・自得庵の7つの茶室が建てられ、庫裏に接する妙秀庵も建てられました。大虚庵は1915年(大正4年)に道具商・土橋嘉兵衛の寄付により、速水宗汲の設計で建てられました。大虚庵は本阿弥光悦が鷹ヶ峰に営んだ居室の名称で、本阿弥光悦が亡くなったと言われています。三巴亭は1921年(大正10年)に建てられた数奇屋建築で、八畳二室・水屋などがあります。北西の八畳は光悦堂と称し、仏壇に本阿弥光悦の木像を安置しています。「三巴」は過去・現在・未来を意味しています。徳友庵は本阿弥光悦の号「徳友斎」に由来しています。
【光悦寺の開基である本阿弥光悦】
本阿弥光悦は1558年(永禄元年)に本阿弥光二と妙秀の間に長男として京都に生まれました。父は本阿弥7代当主・本阿弥光心の婿養子になったが、本阿弥光心に実子・光刹が生まれると別家を立てました。本阿弥家は刀剣の鑑定・研磨などを家業とし、父は加賀(石川)前田家から扶持200石を受け、本阿弥光悦も継承していました。家業だけでなく、書・陶芸・漆芸・能楽・茶の湯などにも精通しました。書は独自の光悦流を創始し、近衛信尹・松花堂昭乗とともに寛永の三筆と称されました。陶芸は楽焼の田中常慶に学んだと言われ、不二山と言われる楽焼白片身替茶碗(国宝)・雨雲と言われる楽焼黒茶碗などの楽焼茶碗が残されています。漆芸は鉛・錫・青貝を使用した舟橋蒔絵硯箱(国宝)などが残されています。茶の湯は最初に古田織部を師とし、その後武野紹鴎系統のわび茶に傾倒しました。角倉素庵らとともに豪華な活字本「嵯峨本」を刊行しました。ちなみに孫・本阿弥光甫が本阿弥光悦の行状を「本阿弥行状記」にまとめました。なお本阿弥光悦は1637年(寛永14年)2月27日に亡くなりました。
【光悦寺の歴史 備考】
*参考・・・光悦寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia











