「蔭凉軒日録(おんりょうけんにちろく)」と祇園祭

「蔭凉軒日録」と祇園祭

「蔭凉軒日録」は室町幕府4代将軍・足利義持が相国寺山内に創設したとも言われる蔭凉軒の歴代軒主による公用日記で、禅宗の寺院・僧侶、室町幕府の政治・経済・財政などが記されています。また祇園祭なども記されています。

【祇園祭2026 日程】
祇園祭2026は2026年(令和8年)7月1日(水曜日)の吉符入から2026年(令和8年)7月31日(金曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2026日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)

【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)

【「蔭凉軒日録(おんりょうけんにちろく)」】
「蔭凉軒日録」は室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)が相国寺(しようこくじ)山内に創設したとも言われる蔭凉軒の歴代軒主による公用日記で、禅宗の寺院・僧侶、室町幕府の政治・経済・財政などが記されています。また祇園祭なども記されています。「蔭凉軒日録」1452年(享徳元年)6月7日の条に「山訴によって祇園会(祇園祭)なし。よって京極御成なし。近来、山訴閉籠衆狼籍 少なからずと云々」と記され、延暦寺(えんりゃくじ)とその守護神・日吉大社(ひよしたいしゃ)の強訴(山訴)により、例年6月に行われていた祇園祭が行われず、京極氏が訪問しなかったことが分かります。祇園祭を行う八坂神社は延暦寺・日吉大社の末寺・末社とされ、祇園祭も少なからず影響を受けました。ちなみに1452年(享徳元年)の祇園祭は中原師郷(なかはらもろさと)の「師郷記」などによると師走の12月28日に行われました。1452年(享徳元年)を含む1447年(文安4年)から応仁の乱(おうにんのらん)が勃発する1467年(応仁元年)までの20年間の内、祇園祭は11回も延期され、その内の6回が12月に行われました。「蔭凉軒日録」には1459年(長禄3年)6月7日・1464年(寛正5年)6月14日・1465年(寛正6年)6月14日の条にも祇園祭が記されています。祇園祭が室町時代中期に重要な関心事だったことが分かります。
なお「蔭凉軒日録」1439年(永享11年)12月25日の条に「高麗通信使来日、 於殿中可導之旨有命、 伊勢守之奉」と記され、室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が来日した高麗通信使(高得宗)を殿中に招くように蔭凉軒主・季瓊真蘂(きけいしんずい)に命じたことが分かります。1440年(永享12年)1月12日の条に「高麗官人可使五山一見之由、以飯尾大和守被仰出矣」と記され、足利義教が飯尾貞連を通じ、季瓊真蘂に高麗官人が五山を一見できるように命じたことが分かります。同年2月19日の条に「朝鮮官人、為帰国参于殿中而請暇去、於御会所御対面、御返章被遣、書并箱如彼報而被贈之者、扇子百本・太刀十振・朱椀一具・奈良桶二箇、以僧遣之、」と記され、高得宗ら朝鮮官人が帰国の為に 将軍の住居である室町殿(むろまちどの・室町第)を訪れ、足利義教と面会したことが分かります。足利義教は世宗宛ての返書を遣し、扇子・太刀・朱椀・奈良桶などの返礼品も贈ったことが分かります。蔭凉軒主・季瓊真蘂は足利義教から信任されていたことから「蔭凉軒日録」に室町幕府の外交も記されています。

●蔭凉軒は相国寺山内の塔頭(たつちゆう)・鹿苑院(ろくおんいん)の南坊にあった寮舎です。相国寺は1382年(弘和2年・永徳2年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が花の御所とも言われた室町第(むろまちだい)の東側に一大禅宗伽藍を建立することを発願したのが起源です。寺号「相国寺」は足利義満が左大臣で、左大臣の地位を「相国」と呼んでいたことに由来します。蔭凉軒は創設年が不明です。足利義満は禅宗寺院の人事・行政を総轄する僧録(そうろく)を置き、鹿苑院に住まわせ、その後室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)が鹿苑院の南に蔭凉軒を創設したとも言われています。1425年(応永32年)に相国寺が全焼した際に蔭涼軒も焼失したが、1439年(永享11年)に室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が再建しました。1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱(おうにんのらん)でも再び蔭涼軒が焼失し、その後再建されることはありませんでした。蔭涼軒は将軍の小御所的な建物で、軒主は将軍で、留守職は近侍の禅僧が勤めました。留守職は鹿苑僧録司に属し、将軍と鹿苑僧録司の間にあり、伝達・披露などの役割を担いました。最初の留守職は仲方中正で、1435年(永享7年)に足利義教から信任された季瓊真蘂(きけいしんずい)が留守職になると季瓊真蘂は蔭涼軒主を僭称し、僧事全般の担うと鹿苑僧録司を凌ぐようになり、蔭涼職と言われる官職も生まれました。蔭涼職は応仁の乱による蔭涼軒の焼失後も存続し、1615年(元和元年)に江戸幕府が五山十刹諸山之法度を制定すると鹿苑僧録司とともに廃されました。その後金地院(こんちいいん)僧録に取って代わります。
●「蔭凉軒日録」は季瓊真蘂・益之宗箴 (えきしそうしん) ・亀泉集証 (きせんしゅうしょう) ら歴代蔭涼軒主による公用日記です。季瓊真蘂の1435年(永享7年)~1466年(文正元年)と亀泉集証の1484年(文明16年)~1493年(明応2年)の約40年間に及ぶ記録が残されています。「蔭凉軒日録」には禅宗の寺院・僧侶、室町幕府の政治・経済・財政、武家社会の動静などが記されています。なお「蔭凉軒日録」は原本が関東大震災で焼失したが、尊経閣(そんけいかく)文庫に影写本が残されています。

【「蔭凉軒日録」 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2026日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)

関連記事

京都観光おすすめ

  1. 錦市場(Nishiki Market)
  2. 竹林の道(Bamboo Forest Path)
  3. 嵐山
ページ上部へ戻る