「賢俊の「賢俊僧正日記(けんしゅんそうじょうにっき)」と祇園祭

賢俊の「賢俊僧正日記」と祇園祭

醍醐寺65代座主・賢俊は室町幕府初代将軍・足利尊氏や北朝第2代・光明天皇、北朝第3代・崇光天皇、北朝第4代・後光厳天皇の護持僧だったことから「賢俊僧正日記」に足利尊氏や室町幕府などが記されています。また祇園祭も記されています。

【祇園祭2026 日程】
祇園祭2026は2026年(令和8年)7月1日(水曜日)の吉符入から2026年(令和8年)7月31日(金曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2026日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)

【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)

【賢俊の「賢俊僧正日記(けんしゅんそうじょうにっき)」】
醍醐寺(だいごじ)65代座主・賢俊は室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)や北朝第2代・光明天皇(こうみょうてんのう)、北朝第3代・崇光天皇(すこうてんのう)、北朝第4代・後光厳天皇(ごこうごんてんのう))の護持僧だったことから「賢俊僧正日記」に足利尊氏の動静や室町幕府の政治などが記されています。また祇園祭も記されています。「賢俊僧正日記」1355年(正平10年・文和4年)6月14日の条に「将軍(足利尊氏)・羽林(足利義詮)所望之間、祇園会(祇園祭)棧敷用意、御台(平登子(足利尊氏の妻で、足利義詮の母))同入御、三条烏丸南頬也、面七間打之」と記され、賢俊が足利尊氏とその子で、室町幕府2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)からの所望で、祇園祭を見物する桟敷を用意したことが分かります。桟敷は3基の神輿(大政所神輿(おおまんどころみこし)・八王子神輿(はちおうじみこし)・少将井神輿(しょうしょういみこし))が渡御する三条大路(三条烏丸南)に設けられ、足利尊氏・足利義詮と足利尊氏の妻で、足利義詮の母・平登子が見物しました。歩田楽・馬長・鉾などを見物したとも言われています。南北朝時代(1337年~1392年)から戦国時代(1467年(1493年~1590年)に歴代の足利将軍が祇園祭を見物した記録が残されているが、足利尊氏が祇園祭を見物した記録が残されているのは「賢俊僧正日記」に記されている1回だけと言われています。足利義詮は1364年(正平19年・貞治3年)6月7日・6月14日にも祇園祭を見物したことが中原師守が記した「師守記(もろもりき)」に記されています。なお足利将軍では室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)、室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)や室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)、室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が祇園祭を見物した記録が残されています。祇園祭は1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が勃発して中絶し、1500年(明応9年)に再興されたが、応仁の乱以降に室町幕府や足利将軍の力が徐々に衰え、祇園祭を見物する機会が少なくなったのかもしれません。

●賢俊は鎌倉時代(1185年~1333年)後期の1299年(正安元年)に権大納言(ごんだいなごん)・日野俊光(ひのとしみつ)の子として生まれました。日野俊光は鎌倉時代後期に持明院統(じみょういんとう・北朝)に仕え、賢俊は一貫して持明院統側に立ちました。醍醐寺(だいごじ)三宝院(さんぼういん)の賢助に師事して密教を学び、1322年(元応2年)に今熊野(いまくまの)で正式な受戒である入壇の儀式が行われました。南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府打倒を図った元弘の乱(げんこうのらん)の最中の1331年(元弘元年)に東宮(皇太子)・量仁親王(北朝初代・光厳天皇)ら持明院統の皇族が退避していた六波羅探題(ろくはらたんだい)・北条仲時邸で尊円法親王・賢助らとともに五壇法を行いました。1333年(元弘3年・正慶2年)に賢助が亡くなる際に後継者に指名されました。1336年(延元元年)に九州に敗走していた室町幕府初代将軍・足利尊氏が京都に向かう際、備後の鞆の浦(とものうら)で光厳上皇の院宣を伝えました。同年に後醍醐天皇の護持僧・文観弘真が追放されて醍醐寺65代座主になり、権大僧正にも任じられました。その後真言宗(しんごんしゅう)の長官である東寺(とうじ)長者・根来寺(ねごろじ)大伝法院検校・足利氏(源氏)の氏社である六条八幡宮別当・篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)別当なども歴任し、寺院に大きな影響力を持ちました。1342年(康永元年)に法務大僧正に任じられ、1350年(観応元年)に東寺長者を辞し、足利尊氏の九州鎮定に従いました。観応の擾乱(じょうらん)の際にも足利尊氏に従って、その弟・足利直義(あしかがただよし)方だった実相院(じっそういん)の増基を退けて武家護持僧の筆頭に就きました。賢俊は足利尊氏と北朝3代(北朝第2代・光明天皇、北朝第3代・崇光天皇、北朝第4代・後光厳天皇)の護持僧として権勢を振るい、足利尊氏と厚い信頼関係があったことから将軍門跡(もんぜき)とも言われました。ちなみに賢俊は足利尊氏の厄年の際、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で足利尊氏の厄を代わりに受けることを求めた逸話が残されています。また賢俊は卓抜な連歌作者・歌人でもありました。なお賢俊は1357年(正平12年・延文2年)8月31日に亡くなりました。

【賢俊の「賢俊僧正日記」と祇園祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2026日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)

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