中川喜雲(なかがわきうん)の「案内者」と祇園祭
中川喜雲の「案内者」と祇園祭
俳人・仮名草子作者である中川喜雲は1662年(寛文2年)に京都の観光ガイドブック「案内者」を刊行し、祇園祭・五山送り火などが記されています。祇園祭神幸が行われる6月7日の夜に四条から三条にある茶屋が床を設置していたことが分かります。
【祇園祭2026 日程】
祇園祭2026は2026年(令和8年)7月1日(水曜日)の吉符入から2026年(令和8年)7月31日(金曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2026日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【中川喜雲(なかがわきうん)の「案内者」】
俳人・仮名草子作者である中川喜雲は江戸時代(1603年~1868年)前期の1662年(寛文2年)に京都の観光ガイドブック「案内者(都案内者)」を刊行し、祇園祭・五山送り火などが記されています。
「案内者」6月7日の祇園会(祇園祭)の条に「その夜より、四でうがはら(四条河原)には、三でう(三条)をかぎりに茶屋の床あり。京都のしょにん(諸人)毎夜すすみ(涼み)にいづる。飴(あめ)うり・あぶりどうふ・真瓜(まくわ)等の商人、よもすがら篝(かがり)をたく。人の群衆うたひどよめく事、夜陣の夜に相似たり」と記され、祇園祭神幸(しんこう・神輿迎え)が行われていた6月7日の夜に四条から三条にある茶屋が床(納涼床)を設置していたことが分かります。毎夜、庶民などが夕涼みに出掛け、飴(あめ)・炙り豆腐・メロンの変種である真瓜を売る商人が出店し、かがり火が焚かれ、群衆で大変賑わっていました。祇園祭では6月7日に神幸(神輿迎え)が行われ、先ず前祭の山鉾が巡行し、その後3基の神輿が八坂神社から御旅所(おたびしょ)に渡御しました。6月14日に還幸(かんこう・祇園会)が行われ、先ず後祭の山鉾が巡行し、その後3基の神輿が御旅所から八坂神社に戻りました。そして6月18日に神輿洗式が行われ、鴨川で神輿を祓い清めてその年の祇園祭が終了していました。例年6月7日から6月18日に行われていた祇園祭の神事が鴨川納涼床(のうりょうゆか)の起源となり、鴨川納涼床は1650年(慶安3年)頃に始まったとも言われています。鴨川納涼床は1600年代末に北側の三条から南側の五条で行われ、1700年代に水からくり・諸国の珍物などの見世物小屋・露店が出店するようになり、1750年(寛延3年)頃から10日ほどの期間が6月から7月までの2ヶ月に伸び、その後エリアが北側の二条まで拡大され、1800年代に見世物小屋が減少し、茶屋が多くなったと言われています。ちなみに当初の納涼床は川幅4、500メートルの鴨川の中州や浅瀬に床几(しょうぎ)を置いた簡単なものだったが、江戸時代中期に寛文新堤が整備されると護岸から張り出した低床式の納涼床に変わり、明治時代(1868年~1912年)以降に鴨川沿いの飲食店で高床式の納涼床を設置するようになりました。現在、鴨川納涼床(川床)は例年5月1日から9月30日に行われています。(要確認)なお中川喜雲は1658年(明暦4年)に「京童(きょうわらべ)」を刊行し、四条河原での納涼床は記されていないが、歌舞伎が行われていたことが記され、四条河原は江戸時代には大変人で賑わっていたようです。
●鴨川納涼床は桃山時代(1583年~1603年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が三条橋・五条橋を架け替え、鴨川が見世物や物売りで賑わい、商人が見物席を設けたり、茶店を出したりしたのが起源とも言われています。その後江戸時代(1603年~1868年)に鴨川の石垣が整備され、茶店が組織化されると河原の涼みと言われました。なお鴨川での夕涼みは平安時代中期の歌人・曽禰好忠(そねのよしただ)が「みそぎする 賀茂の河風 吹くらしも 涼みにゆかん 妹をともなひ」と詠み、千年以上前から行われていると言われています。
●中川喜雲は出生年不詳です。中川喜雲は丹波の郷士・中川仁右衛門重定(なかがわじんえもんしがさだ)の子として丹波国桑田郡(亀岡市)で生れたと言われています。また芸州(広島)で生れたとも言われています。本名は中川吉左衛門重治(なかがわきちざえもんしげはる)で、山桜子とも号しました。中川喜雲は一旦仕官したが、その後京都で医者の修業をしながら松永貞徳(まつながていとく)・安原貞室(やすはらていしつ)に俳諧を学んだと言われています。俳諧師として「崑山集(こんざんしゅう)」・「玉海集(ぎょっかいしゅう)」などの貞門俳書に入句しました。また仮名草子作者としても活躍しました。1658年(明暦4年)に名所案内「京童」、1659年(万治2年)に名所案内「鎌倉物語(かまくらものがたり)」・笑話集「私可多咄(しかたばなし)」、1667年(1667年)に名所案内「京童跡追(きょうわらべあとおい)」を刊行しました。中川喜雲は江近江小室藩主で、遠州流茶道の祖・小堀遠州(こぼりえんしゅう)らと交流があったとも言われています。中川喜雲は江戸時代中期の1705年(宝永2年)10月3日に亡くなったとも言われています。
【中川喜雲の「案内者」 備考】
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