鯉山のタペストリー(飾毛綴)と祇園祭

鯉山のタペストリーと祇園祭
鯉山のタペストリー(飾毛綴)はベルギー・ブリュッセルで製造され、桃山時代から江戸時代前期に対外貿易によって日本に伝えられたと言われています。また江戸時代前期に仙台藩主・伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節の副使・支倉常長がヨーロッパから持ち帰ったという伝承も残されています。
【祇園祭2026 日程】
祇園祭2026は2026年(令和8年)7月1日(水曜日)の吉符入から2026年(令和8年)7月31日(金曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2026日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【鯉山のタペストリー(飾毛綴)】
鯉山のタペストリー(飾毛綴(かざりけつづれ))は戦国時代(1493年~1590年)から安土桃山時代(1573年~1603年)の16世紀にベルギー・ブランバン・ブリュッセル(BB)で製造され、裁断されて前懸・2枚の胴懸・2枚の水引・見送になりました。ちなみにブリュッセルは16世紀のヨーロッパにおいて、毛綴織の一大生産地でした。ベルギー王室美術歴史博物館の調査により、タペストリー(飾毛綴)はトロイのプリアモス王とその后・ヘカベーを描いた「イーリアス物語(ギリシア吟遊詩人・ホーマー(ホメーロス)作)」の中の「トロイア戦争物語(ギリシア・トロイアの戦い)」の図柄だったことが分かりました。また1575年~1620年に製造された5枚一組のタペストリー(飾毛綴)の内の1枚だったことも分かりました。ちなみに5枚一組のタペストリー(飾毛綴)の内、1枚が東京・芝の増上寺(ぞうじょうじ)、もう1枚が加賀藩が有するようになったが、増上寺の1枚は焼失しました。残り3枚は様々な経緯を経て京都で売りに出されたとも言われています。1枚は3分割され、鶏鉾(にわとりほこ)の見送、霰天神山(あられてんじんやま)の前掛垂、長浜曳山祭(ながはまひきやままつり)の鳳凰山(ほうおうざん)の見送になりました。もう1枚は3等分され、白楽天山(はくらくてんやま)の胴掛になり、残りが大津祭(おおつまつり)の月宮殿山(げっきゅうでんざん)・龍門滝山(りゅうもんたきやま)の見送りになりました。白楽天山の胴掛は1860年(安政7年)に蟷螂山(とうろうやま)から購入しました。なお最後の1枚は鯉山が購入しました。
鯉山のタペストリー(飾毛綴)はベルギー・ブリュッセルで製造され、桃山時代から江戸時代(1603年~1868年)前期に対外貿易によって日本に伝えられたとも言われています。また江戸時代前期に仙台藩主・伊達政宗(だてまさむね)が派遣した慶長遣欧使節の副使・支倉常長(はせくらつねなが)がヨーロッパから持ち帰ったという伝承も残されています。鯉山が購入したタペストリー(飾毛綴)は大工のノミを使って大小9枚に裁断され、裏面を名物裂で覆いました。9枚は見送・2枚の胴懸・2枚の水引になり、残り4枚はひとつにした前懸に仕立て直されました。文政年間(1818年~年)に記された「山鉾装鈔」に「掛替毛綴見送両断二切左右幕ニ用之、文政九年戌年六月新造之」と記されています。ちなみに胴掛の東側は123.0センチ×271.0センチ、西側は123.2センチ×271.5センチです。なお鯉山のタペストリー(飾毛綴)は1949年(昭和24年)5月30日に国の重要文化財に指定されました、
●支倉常長は1571年(元亀2年)に山口常成子として羽州置賜郡長井荘立石邑(山形県米沢市立石)で生まれました。その後父の兄で、伯父・支倉時正の養子になり、陸奥国柴田郡支倉村(宮城県柴田郡川崎町支倉地区)の上楯城で過ごしました。父の断罪に連座して一時追放されました。支倉時正に実子・支倉久成が生まれると伊達政宗の命により、家禄が二分されました。1592年(文禄元年)からの文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡航し、また葛西大崎一揆を鎮圧しました。メキシコとの通商を希望した伊達政宗がスペイン国王・ローマ教皇に使節を派遣することになり、1613年(慶長18年)に遣欧使節としてフランシスコ会の宣教師・ソテーロとともに牡鹿半島月の浦を出帆しました。その後メキシコを経てスペインに渡り、国王・フェリペ3世にマドリードで謁見して伊達政宗の信書を呈しました。王室跣足派女子修道院附属教会で国王臨席のもとで洗礼を受け、洗礼名「ドン・フェリペ・フランシスコ」を与えられました。その後ローマに行き、教皇・パウロ5世に謁見して伊達政宗の信書を呈しました。ローマ市民権を与えられて貴族に列せられました。ただ通商交渉に当たったが、成功しませんでした。マドリードに戻ったが、日本でのキリシタン迫害が報告され、スペインの対応が厳しくなり、帰国は容易ではなかったが、セビリアからメキシコを経てマニラに立ち寄り、1620年(元和6年)に帰国して仙台に戻りました。帰国後はキリシタン禁制によって不遇になり、隠棲を余儀なくされました。なお支倉常長は1622年(元和8年)8月7日に亡くなりました。
【鯉山のタペストリーと祇園祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2026日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)














