舞妓(芸妓)・新町通(祇園祭)

舞妓(芸妓)・新町通(祇園祭)

舞妓は7月24日の花傘巡行に奉仕したり、7月16日の宵宮神賑奉納行事で舞を奉納したりしています。また舞妓はプライベートで山鉾の曳き初めに参加したり、見物したり、そして宵山などを楽しんだりしています。そんな舞妓をよく見掛けるのが7月17日の山鉾巡行(前祭)で山鉾が新町通を通過する際かもしれません。

【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)

【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)

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【祇園祭 舞妓・新町通】
舞妓は7月24日の花傘巡行(祇園甲部・祇園東・先斗町・宮川町)に奉仕したり、7月16日の宵宮神賑奉納行事(祇園甲部)で舞を奉納したりしています。また舞妓はプライベートで山鉾の曳き初めに参加したり、見物したり、そして宵山などを楽しんだりしています。そんな舞妓をよく見掛けるのが7月17日の山鉾巡行(前祭)で新町通を山鉾が通過する際かもしれません。新町通は山鉾が通過する時間(11:20以降)が遅いことと他の通り(四条通・河原町通・御池通)と比較すると人出が少ないことが理由のようです。また新町通は他の通りと比較すると道幅が狭く、近くで見物できることも理由かもしれません。舞妓は深夜にお座敷が終わり、置屋に帰宅することも多いと言われています。ちなみに就寝時間は24:00以降、起床時間は8:00頃とも言われています。四条通・河原町通は花街から比較的近いが、祇園祭・山鉾巡行の見どころである辻回しが交差点で行われたり、電車(地下鉄・阪急・京阪)の便がよいことから人出が多くなるようです。なお新町通には舞妓・芸妓によく知られる紫織庵(しおりあん・旧川崎家住宅)・くろちくなどがあります。ちなみに紫織庵には鉾見台(観覧席)があり、屏風飾りを展示しています。
紫織庵(旧川崎家住宅)は京都市指定有形文化財です。紫織庵は大正時代に綿布商を営む井上利助が上坂浅次郎を大工棟梁として建設しました。棟札によると1924年(大正13年)に蔵、1926年(大正15年)に主屋や便所浴室棟が完成したと言われています。

【祇園祭 舞妓・花街】
舞妓は最初に「割れしのぶ(小さい舞妓さん(年少の舞妓))」、2~3年後に「おふく(大きい舞妓さん(年長の舞妓))」になり、芸妓への襟替え直前に「先笄(さっこう)」という髪型になります。「おふく」を結っている舞妓さんは祇園祭(7月1日~31日)の期間中に「勝山(かつやま)」という特別な髪型になります。「勝山」は髷(まげ)の部分を輪にして左右から梵天(ぼんてん)という飾りを挿します。「勝山」は山鉾建て(前祭)が行われる7月10日頃から山鉾巡行(後祭)・花傘巡行・還幸祭が行われる7月24日頃まで結われます。ちなみに「勝山」は元々「勝山」という名の遊女が好んで武家風に結った髷から発展したものとも言われているそうです。また「おふく」を結っている舞妓さんは1月の始業式・8月の八朔(はっさく)の際に黒紋付き(正装)に「奴島田(やっこしまだ)」という特別な髪型になります。
祇園甲部(ぎおんこうぶ)・祇園東(ぎおんひがし)は江戸時代初期に八坂神社の門前で営業していた水茶屋とそこで働く茶点て女が起源と言われています。京都所司代・板倉重宗から茶点て女を置くことが許可され、八坂神社(祇園社)門前の茶屋町を「祇園町」と言うようになりました。明治時代に祇園東が祇園甲部から分離独立し、祇園乙部と言われていたが、戦後に祇園東新地、そして祇園東に名称を変更しました。
先斗町(ぽんとちょう)は江戸時代初期に鴨川の州を埋め立て、茶屋や旅籠が置かれたのが始まりと言われています。先斗町の先斗という地名はポルトガル語のponto(先)が語源とも、先斗町が鴨川と高瀬川に挟まれ、2枚の皮に挟まれている鼓に例えられ、鼓の「ポン」と鳴る音に掛けたとも言われています。
宮川町(みやがわちょう)は江戸時代に人気になった出雲・阿国(おくに)の歌舞伎踊りの頃から始まりました。当初は遊女などが接待していたが、江戸時代の三大改革によって打撃を受けました。
上七軒(かみしちけん)は室町時代に北野天満宮が再建された際、残った資材を使って7軒の茶店が建てられたのが起源とされ、「上七軒」と言われるようになりました。桃山時代に関白・豊臣秀吉が北野大茶湯を開いた際、茶店が団子を献上しました。その後江戸時代に下の森や五番町に茶屋株を貸し、芸妓中心の花街として発展しました。

【祇園祭 新町通】
新町通(しんまちどおり)は北端の上賀茂橋(かみがもばし)から南端の十条通(じゅうじょうどおり)南まで南北に走っています。新町通はかつて平安京の町尻小路(まちじりこうじ)・町口小路(まちぐちこうじ)でした。町尻小路・町口小路は鎌倉時代以降に町衆の中心を走る町小路(まちこうじ)になり、土倉などが建ち並ぶようになったとも言われています。町小路(町尻小路・町口小路)は比較的高台を南北に走っていたことから鴨川(かもがわ)の氾濫に影響されない一等地とされ、商人の商家や職人の工房などが集まったとも言われています。南北朝時代頃から祇園祭で山鉾がたくさん造られ、山鉾巡行が祇園祭で注目されるようになると町衆の中の富裕層である有徳人(うとくにん・有得人)が山鉾巡行の費用を拠出・負担したことから潤屋の賤民(じゅんおくのせんみん)とも言われました。新町通は元亀年間(1570年~1573年)頃から天正年間(1573年~1593年)頃に名称が新町通に改められたとも、江戸時代初期に改められたとも言われています。なお新町通では7月17日の山鉾巡行(前祭)で巡行する放下鉾(ほうかほこ)・岩戸山(いわとやま)・船鉾(ふねほこ)が7月10日から組み立て始められます。また7月24日の山鉾巡行(後祭)で巡行する北観音山(きたかんのんやま)・南観音山(みなみかんのんやま)・大船鉾(おおふねほこ)・八幡山(はちまんやま)が7月18日から組み立て始められます。

【祇園祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2025日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)

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