泉涌寺献菊展2025年(日程時間・・・)
泉涌寺献菊展
泉涌寺献菊展(日程・時間・・・)を紹介しています。献菊展は毎年菊が見ごろを迎える時期に行われています。献菊展は境内に花壇が設けられて行われます。献菊展では約数百鉢が展示されます。菊の見ごろは10月後半からです。なお泉涌寺では1932年(昭和7年)に華道・月輪未生流が創流されました。月輪未生流は皇族への献花が起源と言われています。(詳細下記参照)
【泉涌寺献菊展2024 日程時間(要確認)】
泉涌寺献菊展2024は2024年(令和6年)10月12日(土曜日)~11月19日(火曜日)9:00~16:30に行われます。(現在確認中・要注意)
*参考・・・泉涌寺ホームページ
【泉涌寺献菊展 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
最寄り駅・バス停・・・泉涌寺道(徒歩約7分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から泉涌寺は208系統(D2乗り場)
*四条河原町からは207系統
*四条烏丸からは207系統
*河原町丸太町202系統
路線・時刻表・運賃チェック
*JR奈良線の場合、最寄り駅は東福寺駅(徒歩約15分)
*京阪電鉄本線の場合、最寄り駅は東福寺駅(徒歩約15分)
【泉涌寺献菊展 歴史・簡単概要】
泉涌寺献菊展(けんかてん)は境内に花壇が設けられて行われます。献菊展では約数百鉢が展示されます。なお菊の見ごろは10月後半からです。
菊はキク科キク属の多年草です。日本には古来中国から伝わったと言われ、現在約350種が自生しています。ちなみに日本最古の和歌集・万葉集には157種の植物が詠まれているが、菊を詠んだ和歌は一首もなく、飛鳥時代・奈良時代に菊がなかったことを推測させるそうです。なお菊は花の大きさで大菊・中菊・小菊、花の花びらで一重・八重に分けられます。花の色は多様で、白・黄・赤などがあります。
八重菊を図案化した十六八重表菊は皇室の家紋です。後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)が菊の花の意匠を好み、自らの印として愛用したことから菊紋(きくもん)が皇室の家紋になったそうです。
泉涌寺では1932年(昭和7年)に華道・月輪未生流(つきのわみしょうりゅう)が創流されました。華道・月輪未生流は皇族への献花が起源と言われています。
●泉涌寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
泉涌寺歴史(空海・藤原緒嗣・神修上人)
●泉涌寺の見どころ(仏殿・開山堂など)を紹介しています。
泉涌寺見どころ(仏殿・開山堂など)
【泉涌寺 歴史・簡単概要】
泉涌寺(せんにゅうじ)は起源が明確ではありません。泉涌寺は平安時代前期の天長年間(824年~834年)に真言宗の開祖である弘法大師・空海が草庵を結んで、法輪寺と名付けたのが起源とも言われています。また泉涌寺は855年(斉衡2年)に左大臣・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が神修上人(じんしゅうしょうにん)に山荘を与えて寺院に改め、仙遊寺と称したのが起源とも言われています。その後1218年(建保6年)に月輪大師(がちりんだいし)・俊じょう(しゅんじょう)が鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の家臣・宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)から寄進され、1226年(嘉禄2年)に宋法式を取り入れた大伽藍を造営し、泉涌寺に名称を改めました。泉涌寺の名称は寺地の一角から清水が涌き出したことに由来し、現在も枯れることなく湧き続けています。1224年(貞応3年)に第86代・後堀河天皇が皇室の祈願寺とし、崩御後に後堀河天皇の陵墓が築かれ、1242年(仁治3年)に第87代・四条天皇が崩御すると葬儀が営まれました。なお泉涌寺は江戸時代以降、第108代・後水尾天皇から第121代・孝明天皇までが山内に葬られ、陵墓に香を焚き、花を供える香華院となり、「御寺(みてら)」と尊称されるようになりました。
泉涌寺は真言宗泉涌寺派の総本山です。
*参考・・・京都・泉涌寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【泉涌寺献菊展 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
泉涌寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報