等持院椿見ごろ2022(1月下旬~3月中旬頃)

等持院椿見ごろ(例年)・見どころ

等持院椿見ごろ(イベント・・・)を紹介。等持院には江戸時代初期に豊臣秀吉の子・豊臣秀頼が等持院を再建した際に植えられたとも言われる有楽椿があります。有楽椿は織田有楽斎が好んだことに由来しています。有楽椿は樹高約10メートル・根元幹回り約100メートルで、地上約85センチ付近から三又に分かれています。(詳細下記参照)

【等持院 椿見ごろ(例年)】
等持院の椿見ごろは例年1月下旬頃から3月中旬頃です。なお椿の見ごろはその年の気候などによって多少前後することがあります。
京都椿名所・見ごろ

【等持院椿見ごろ アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市北区等持院北町63
最寄り駅・バス停・・・等持院南町(徒歩約7分)、等持院道(徒歩約7分)

アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から等持院は26系統(D3乗り場)南
*四条烏丸からは26系統南
*四条河原町からは10系統南
*河原町丸太町からは10系統南
路線・時刻表・運賃チェック

*嵐電(京福電鉄)北野線の場合、最寄り駅は等持院・立命館大学衣笠キャンパス前駅(徒歩約7分)

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【等持院 椿見ごろ(例年)・見どころ】
等持院は京都で良く知られている椿の名所です。等持院の椿見ごろは例年1月下旬頃から3月中旬頃です。
等持院には江戸時代初期に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が等持院を再建した際に植えられたとも言われる有楽椿が植えられています。有楽椿は織田信長(おだのぶなが)の実弟・織田有楽斎(おだうらくさい)が豊臣秀頼の指示で植えたとも言われています。また有楽椿は織田有楽斎が好んだことに由来しています。有楽椿は樹齢約400年とも言われています。有楽椿は樹高約10メートル・根元幹回り約100メートルで、地上約85センチ付近から三又に分かれています。ちなみに有楽椿は花が青みがかった薄いピンク色です。花が苔むした地表に落ちている光景に風情があるとも言われています。
豊臣秀頼は1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(浅井茶々)の間の第2子として生まれました。豊臣秀頼は豊臣秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政が拾い上げました。秀吉は秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に秀次の関白職を奪って自刃させ、秀頼の継嗣としての地位を確定させました。1598年(慶長3年)に秀吉が死去すると家督を継ぎ、秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の子・千姫と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件によって大坂の陣が勃発し、秀頼は1615年(慶長20年)6月4日に淀殿らとともに自害しました。
織田有楽斎は1547年(天文16年)に戦国大名・織田信秀の11男として生まれました。1574年(天正2年)に尾張国知多郡を与えられ、大草城を改修しました。その後兄・織田信長の長男・織田信忠の旗下(きか)にあったとも言われています。1582年(天正10年)の本能寺の変後に関白・豊臣秀吉に仕え、御伽衆になりました。また千利休に茶道を学び、高弟になって利休十哲に数えられました。1590年(天正18年)に剃髪して有楽と号し、1594年(文禄3年)に秀吉が前田利家邸を訪ねた際に室礼などを指導しました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで江戸幕府初代将軍・徳川家康方に属し、大和国の3万2千石を与えられました。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で豊臣方の盟主に推されたが、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣に参加せず、京都に隠棲して茶の湯に専念しました。なお織田有楽斎は1622年(元和7年)1月24日に亡くなりました。
椿は日本原産のツバキ科ツバキ属の常緑樹(照葉樹林)です。椿は北海道などを除く、日本各地に自生しています。椿は日本最古の正史「日本書紀」に第12代・景行天皇が熊襲(くまそ)の乱を鎮めた際、土蜘蛛(つちぐも)に対して海石榴(ツバキ)の椎を用いたと記されています。椿は安土桃山時代に関白・豊臣秀吉が茶の湯に好んで用いると茶道で茶花として重要な地位を占めるようになりました。椿は江戸時代以降に多くの園芸品種が作られ、500以上の園芸品種があると言われています。なお椿は邪悪を祓うとも言われ、正倉院には災いを祓う海石榴の卯杖(うづえ)が収められています。

【等持院 歴史・簡単概要】
等持院(とうじいん)は南北朝時代の1341年(暦応4年・興国2年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)が中京区柳馬場御池付近に創建した等持寺(とうじじ)の別院として、夢窓国師(むそうこくし)・夢窓疎石(むそうそせき)を開山に北区等持院北町に北等持寺として創建されたのが起源とも言われています。その後1358年(延文3年・正平13年)に尊氏が亡くなると別院・北等持寺が尊氏の墓所になり、尊氏の法名・等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿から等持院に寺号が改められました。室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火で本坊・等持寺が焼失し、別院・等持院が本坊・等持寺を合寺しました。その後江戸時代初期に豊臣秀頼が父で、関白・豊臣秀吉の遺命によって再建したが、その後度々焼失しました。江戸時代後期の1818年(文政元年)に福島正則が1616年(元和2年)に建立した妙心寺(みょうしんじ)の塔頭・海福院(かいふくいん)の建物が移されて方丈となりました。なお等持院は本尊・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を安置しています。また第5代将軍・第14代将軍を除き、初代・足利尊氏から第15代将軍・足利義昭までの歴代室町幕府の将軍木像を霊光殿に安置しています。
等持院は臨済宗天龍寺派の寺院です。
*参考・・・等持院(アクセス・歴史・見どころ・・・)ホームページ等持院(アクセス・歴史・見どころ・・・)wikipedia

【等持院椿見ごろ 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
等持院(アクセス・見どころ・・・)情報

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