藤原頼通(ふじわらのよりみち)・斎院御禊と葵祭

藤原頼通・斎院御禊と葵祭

摂関政治の全盛期を父・藤原道長とともに築いた藤原頼通は葵祭の諸行事の一つである斎王御禊に供奉しました。藤原頼通の時代(1017年(長和6年)~1074年(延久6年))には葵祭の前日の申の日に摂関賀茂詣を行うことが摂関家の行事として確立されました。

【葵祭日程2026(要確認)】
葵祭2026ではハイライトである路頭の儀が2026年(令和8年)5月15日(金曜日)に行われます。(悪天候の場合、翌16日に順延)なお葵祭では例年5月1日から主な前儀・後儀が行われます。
葵祭2026日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭・路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀2026

【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の第29代・欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来

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【藤原頼通(ふじわらのよりみち)・斎院御禊】
摂関政治(摂政・関白)の全盛期を父・藤原道長(ふじわらのみちなが)とともに築いた藤原頼通は葵祭の諸行事の一つである斎王御禊(さおうぎょけい)に供奉しました。藤原頼通の時代(1017年(長和6年)~1074年(延久6年))には葵祭の前日の申(さる)の日に摂関賀茂詣を行うことが摂関家の行事として確立されました。
「大鏡(おおかがみ)」に「今の関白殿(頼通)、兵衛佐にて、御禊に御前せさせたまへりしに、いと幼くおはしまえば、例は本院に帰らせたまひて、人々に禄などたまはするを、これは河原より出でさせたはひしかば、思ひかけぬ御ことにて、さる御心まうけもなかりければ、御前に召しありて、御対面などせさせたまひて、(選子内親王)奉りたまひけるぞ小袿をぞ、かづけたてまつらせたまへりける。」と記され、藤原道長(ふじわらのみちなが)の子で、関白・藤原頼通が斎王御禊に花形の前駆として供奉したことが分かります。葵祭では酉(とり)の日に葵祭に奉仕する斎王や勅使などが賀茂社(下鴨神社・上賀茂神社)に参向する路頭の儀(ろとうのぎ)などが行われ、その3日前の午(うま)の日に斎王が鴨川(賀茂川)で身を清める斎王御禊(ぎょけい)が行われていました。斎院御禊では斎王は住する賀茂斎院(かもさいいん・紫野斎院)を出発し、大宮大路(大宮通)を南下し、一条大宮で方向転換し、一条大路(一条通)を東側に向かって鴨川を目指しました。斎王が鴨川で禊(みそぎ)を終えると一条大路・大宮大路を通り、賀茂斎院に戻りました。藤原頼通は幼かったこともあり、斎王が鴨川から賀茂斎院に戻るまで供奉せず、鴨川で別れて帰った為、第16代斎王(斎院)・選子内親王(せんしないしんのう・のぶこないしんのう)が機転を利かせて、身に着けていた小袿(こうちぎ)を禄(ろく)として与えました。「小記目録」の「賀茂祭事」に「長保五年(1003年)四月十二日、頼通、自斎院(選子内親王)、令給御衣事」と記され、藤原頼通は11歳頃、選子内親王は39歳頃と言われ、二人は親子ほど年齢が離れていました。藤原頼通は992年(正暦3年)に生まれました。選子内親王は964年(応和4年)に生まれ、975年(天延3年)の11歳頃に斎王に卜定され、その後円融天皇(えんゆうてんのう)・花山天皇(かざんてんのう)・一条天皇(いちじょうてんのう)・三条天皇(さんじょうてんのう)・後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の5代・57年に渡って斎王を務め、「大斎院」と称されました。1003年(長保5年)は斎王に卜定されてから28年ほど経過し、葵祭に奉仕する斎王として経験が大変豊富でした。

●斎院御禊は紫式部(むらさきしきぶ)作の「源氏物語(げんじものがたり)」の題材にもなっています。「源氏物語」には「御禊の日、上達部(かむだちめ)など数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに容貌(かたち)あるかぎ、下襲(したがさね)の色、表袴(うへのはかま)の紋、馬(むま)、鞍までみなととのへたり、とりわきたる宣旨(せんじ)にて大将の君(光源氏)も仕うまつりたまふ。かねてより物見車(ものみぐるま)心づかひしけり、一条の大路所なくむくつけきまで騒ぎたり。所どころの御桟敷(さじき)、心々にし尽くしたるしつらひ、人の袖口さ、へいみじき見物(みもの)なり。」と記され、主人公・光源氏(ひかるげんじ)が勅命で斎院御禊に供奉したことが描かれ、斎王御禊が注目される行事だったことが分かります。斎王御禊を見物する為に大勢の見物人が訪れ、光源氏の正室・葵の上と光源氏の恋人の一人だった六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の車争いも描かれています。なお紫式部は藤原頼通の兄弟で、一条天皇の中宮・藤原彰子(ふじわらのしょうし)に仕えていました。
●藤原頼通は992年(正暦3年)に藤原道長と左大臣・源雅信の娘・源倫子の間に生まれました。998年(長徳4年)に御所・清涼殿の殿上の間に出入りを許された童殿上になり、1003年(長保5年)に元服して正五位下に叙されました。1006年(寛弘3年)に従三位に昇叙され、国政を担う公卿に列し、1013年(長和2年)に権大納言に任じられました。1016年(長和5年)に第67代・三条天皇が譲位し、敦成親王が第68代・後一条天皇に即位すると父が外祖父として摂政になり、翌1017年(長和6年)に内大臣になるとともに父に代わって摂政になり、藤原氏長者にもなりました。1019年(寛仁3年)に関白になったが、父が実権を持っていたことから政務の不手際から勘当になった時期もありました。1021年(治安元年)に左大臣になり、1061年(康平4年)に太政大臣になりました。藤原頼通は第68代・後一条天皇、第69代・後朱雀天皇、第70代・後冷泉天皇の3代にわたって摂政・関白になり、父とともに摂関政治の全盛期を築きました。ただ娘・藤原寛子が第70代・後冷泉天皇の皇后になったが、皇子がなくて外祖父になれず、第71代・後三条天皇が即位すると権勢が徐々に衰えました。なお藤原頼通は1074年(延久6年)に亡くなりました。

【藤原頼通・斎院御禊と葵祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ

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