禅定寺節分会-2025年の節分は2月2日(日程時間・・・)
禅定寺節分会
禅定寺節分会(日程・時間・・・)を紹介しています。節分会は例年節分(立春の前日)に行われています。節分会では住職が宝物殿から「福は内」と言いながら豆を撒きます。(要確認)禅定寺観音のご縁が1年間続くように5円硬貨を付けたお福分け豆も撒かれます。豆撒き後に講話が行われたり、こんにゃく田楽の接待が行われたりします。(要確認)(詳細下記参照)
【禅定寺節分会2024 日程時間(要確認)】
禅定寺節分会2024は2024年(令和6年)2月3日(土曜日)14:00から行われます。(現在確認中・要注意)
*参考・・・禅定寺ホームページ
●京都の寺院・神社では節分・豆まきなどの行事が行われています。
京都節分・豆まき2025
【禅定寺節分会 アクセス・マップ】
場所・・・京都府綴喜郡宇治田原町大字禅定寺小字庄地100
最寄り駅・バス停・・・維中前(徒歩約30分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*JR宇治駅・京阪宇治駅・近鉄新田辺駅から京阪宇治バス
路線・時刻表・運賃チェック
【禅定寺節分会 歴史・簡単概要】
禅定寺節分会(せつぶんえ)・星まつり(ほしまつり)は例年節分(立春の前日)に行われています。
節分会では住職が宝物殿から「福は内」と言いながら豆を撒きます。(要確認)禅定寺観音のご縁が1年間続くように5円硬貨を付けたお福分け豆も撒かれます。ちなみに十一面観音(じゅういちめんかんのん)立像は国の重要文化財に指定されています。豆撒き後に住職による講話が行われたり、庫裏で厄落としのこんにゃく田楽・お茶の接待が行われたりします。(要確認)
- 節分は元々季節が変わる節目で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を差していたが、江戸時代以降は立春の前日だけを指す場合が多くなりました。節分には邪気悪霊(鬼)が外から入ってくるのを防ぐ為、「鬼は外・福は内」と言いながら福豆を撒き、年の数だけ福豆を食べて厄除けをします。豆撒きは平安時代中期に鞍馬山の鬼が都を荒らしたことから毘沙門天のお告げにより、鬼の穴を祈祷で封じ、鬼の目を炒り豆で打ちつぶしたということに由来しています。豆などの穀物には魔除けの呪力や生命力を持つという穀霊が宿っているとも言われています。豆は鬼の目を表す「魔目(まめ)」から鬼を滅する「魔滅」を意味するようになったそうです。
- 星まつりでは立春・元旦などに星を供養し、一年間の幸福を祈り、災いを除きます。ちなみに星まつりは中国の道教で行われていた冬至の祭儀が起源と言われています。なお星まつりは北斗法(ほくとほう)・星供養(ほしくよう)・星供(ほしく)などとも言われています。
【禅定寺 歴史・簡単概要】
禅定寺(ぜんじょうじ)は991年(正暦2年)に東大寺53代別当・平崇上人(へいそしょうにん)が私領の山野を卜定(ぼくじょう)し、堂を建立して十一面観音像を安置し、天台宗の寺院として創建したとも言われています。平崇上人は987年(永延元年)から太政大臣・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の帰依を受けて造営を開始し、990年(正暦元年)に藤原兼家が没したが、991年(正暦2年)に本堂の建立を開始し、995年(長徳元年)に完成したと言われています。また平崇上人は1001年(長保3年)に杣山一千町を含む田畠を施入(せにゅう)しました。1071年(延久元年)に寺領が太政大臣・藤原頼通(ふじわらのよりみち)が創建した平等院(びょうどういん)に寄進され、平崇上人が創建した東大寺の正法院から平等院の末寺になったと言われています。その後戦国時代に衰微し、1680年(延宝8年)に加賀・大乗寺(だいじょうじ)を中興した曹洞宗の僧・月舟宗胡(げっしゅうそうこ)が入寺し、加賀藩家老・本多政長(ほんだまさなが)の援助で再興し、天台宗から曹洞宗に改めました。また江戸時代中期に第112代・霊元天皇が行幸し、勅額を賜りました。なお禅定寺は福井・永平寺(えいへいじ)と神奈川・總持寺(そうじじ)を大本山としています。
禅定寺は曹洞宗の寺院です。
*参考・・・禅定寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【禅定寺節分祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
禅定寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報
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