田楽(でんがく)・永長の大田楽と祇園祭
田楽・永長の大田楽と祇園祭
祇園祭にはかつて田楽や馬長・童・巫女などが様々な人々が参加していました。1096年(永長元年)は大江匡房が記した「洛陽田楽記」によると京都で田楽が爆発的に流行して人々が熱狂し、「永長の大田楽」とも言われ、祇園祭でも田楽が参加した記録が残されています。
【祇園祭2026 日程】
祇園祭2026は2026年(令和8年)7月1日(水曜日)の吉符入から2026年(令和8年)7月31日(金曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2026日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【田楽(でんがく)・永長の大田楽】
祇園祭にはかつて田楽や馬長(うまおさ)・童(わらわ)・巫女(みこ)などが様々な人々が参加していました。平安時代後期の1096年(永長元年)は公卿・歌人である大江匡房(おおえのまさふさ)が記した「洛陽田楽記(らくようでんがくき)」によると京都で田楽が爆発的に流行して人々が熱狂し、「永長の大田楽」とも言われ、祇園祭でも田楽が参加した記録が残されています。
公卿・藤原宗忠(ふじわらのむねただ)が記した日記「中右記(ちゅうゆうき)」1096年(永長元年)6月14日の条に「十四日、巳時許参内、終日伺候、今日祇園御霊会(祇園祭)間禁中無人、仍終日候御前也、後聞、院召仕男共四百人許供奉、又院蔵人町童七十余人、内蔵人町童部卅余人、田楽五十村許、近代第一見物之年者、入夜従内退出、」と記され、6月14日の還幸(かんこう・祇園会(ぎおんえ))の際に田楽50組や白河上皇(第72代・白河天皇(しらかわてんのう))に仕えた男400人・童70余人などが参加し、近代で一番よい見物だったと評されていることが分かります。藤原宗忠は巳の刻に禁中に参内したが、禁中に人が居ませんでした。ちなみに同年6月12日の条にはこの十日あまり、人々が田楽に遊興し、昼は庶民、夜は諸宮家の青侍と身分に関係なく田楽を楽しみ、道が人々に埋め尽くされて通行の妨げになっているが、祇園祭で制止できないと記されています。なお1096年(永長元年)は松尾大社(まつのおたいしゃ)の松尾祭に中止命令が出た為、反発した庶民などが祇園祭で田楽に熱狂したと言われています。松尾大社では999年(長保元年)4月10日に山崎の津人が田楽を奉納したことが「日本記略」に記され、文献上で2番目に古い記述と言われています。
日記「中右記」に1127年(大治2年)6月14日の条に「祇園御霊会(祇園祭)、四方殿上人、馬長、童、巫女、種女、田楽各數百人、此外祇園所司僧随身數十人兵供奉、舞人十人、使乗唐鞍、凡天下過差不可勝計、金銀錦繍風流美麗不可記盡、両院於按察中納言三条室町棧敷御見物云々、」と記され、田楽や馬長(うまおさ)・童(わらわ)・種女など約数百人が参加していたことが分かります。1127年(大治2年)の祇園祭還幸(祇園会)も書き表せないほど金銀錦のように豪華で美麗でした。ちなみに「本朝世紀(ほんちょうせいき)」によると1147年(久安3年)6月15日の祇園臨時祭に平清盛(たいらのきよもり)が宿願の成就の為、田楽を奉納しようとした際に平氏の郎党と八坂神社の神人(じにん)が闘乱になったことが記されています。1096年(永長元年)の「永長の大田楽」から数十年から半世紀経過しているが、田楽は相変わらず人気だったようです。
なお第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)が絵師・常盤光長(ときわみつなが)らに描かせ、藤原基房(ふじわらのもとふさ)に校閲させ、1157年(保元2年)~1179年(治承3年)頃に完成した「年中行事絵巻(ねんじゅうぎょうじえまき)」に田楽が描かれています。一人が横笛、二人が大鼓、三人が編木(びんざさら)を伴奏し、鼓を放り投げて乱舞し、見物人が目を奪われている光景が描かれています。京都では鎌倉時代(1185年~1333年)頃から田楽が猿楽(さるがく)などとともに四条河原で勧進興行を行っていました。
●田楽は平安時代(794年~1185年)中期に成立したと言われる伝統芸能です。田楽は「和泉大鳥社流記帳」によると922年(延喜22年)4月7日に和泉国(大阪)一宮・大鳥明神で行われたことが記され、これが文献上の初例と言われています。また「日本記略」には999年(長保元年)4月10日に京都・松尾大社の祭礼で山崎の津人が田楽を奉納したことが記され、文献上で2番目に古い記述と言われています。田楽は田植えの前に豊作を祈る田遊びが起源とも、田の神に五穀豊穣を祈願した楽が起源とも、農民を慰労する為に演じたのが起源とも言われています。(諸説あり)田楽は元々、田植えなどの農耕に歌舞を奏した文字通り田の楽だったと言われています。その後仏教や鼓吹と結び付いて格式が整えられ、芸能として洗練されていきました。当初、御霊会と結び付いたことから仏事に演じられる舞楽に対し、卑俗な芸能と見られていました。平安時代後期に早乙女が苗を植えるのを田楽衆がささら(簓・編木)・笛・腰鼓・小鼓・銅拍子などで囃して群舞しました。華麗な服装を纏い、奇抜・滑稽な動作で踊り歩く集団的な舞踏が流行しました。鎌倉時代に田楽能が生まれて流行したが、鎌倉時代中期に猿楽能が生れれると室町時代初期に覇を争ったが、猿楽能の興隆とともに急速に衰えていきました。なお田楽では専業の田楽法師も出ました。
●祇園田楽は平安時代後期に平清盛が田楽を奉納した故事に基づいて復元されました。那智田楽などを参考に8人の八乙女の踊として復元され、7月16日の宵山、7月17日の山鉾巡行・神幸祭、7月24日の花傘巡行の際に八坂神社で奉納されていたが、2006年(平成18年)を最後に途絶えました。
【田楽・永長の大田楽と祇園祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
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