一休寺一休善哉の日2025年1月26日(日程時間・・・)
一休寺一休善哉の日
一休寺一休善哉の日(日程・時間・・・)を紹介しています。一休善哉の日は例年1月の最終日曜日に行われています。一休善哉の日では先ず年頭の1月にその一年間の誓いの言葉を絵馬に書いて奉納します。その後善哉を頂いて成就を願います。なお一休善哉の日は一休さん(一休宗純(いっきゅうそうじゅん))に誓い、行動を約束する日とされています。(詳細下記参照)
【一休寺一休善哉の日2025 日程時間(要確認)】
一休寺一休善哉の日2025は2025年(令和7年)1月26日(日曜日)10:00~16:00に行われます。(現在確認中・要注意)
*参考・・・一休寺ホームページ
【一休寺一休善哉の日 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京田辺市薪里ノ内102
最寄り駅・バス停・・・一休寺(徒歩約3分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*近鉄京都線・新田辺駅から京阪バス・66系統(4番乗り場)
*京都駅・八条口からダイレクトエクスプレス直Q京都号の場合、一休寺(徒歩すぐ)
【一休寺一休善哉の日 歴史・簡単概要】
一休寺一休善哉の日(いっきゅうぜんざいのひ)・善哉奉納は2005年(平成17年)に1月の最終日曜日を一休善哉の日と定めたのが始まりです。なお一休寺ゆかりの一休さん(一休宗純(いっきゅうそうじゅん))は1月1日に生まれました。
一休善哉の日では先ず年頭の1月にその一年間の誓いの言葉を絵馬に書いて奉納します。その後善哉を頂いて成就を願います。なお一休善哉の日は一休さん(一休宗純(いっきゅうそうじゅん))に誓い、行動を約束する日とされています。
善哉は一休さん(一休宗純)が臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺(だいとくじ)の住職からお餅の入った小豆汁(あずきじる)をご馳走になり、「善哉此汁(よきかなこのしる)」と言ったことに由来すると言われています。善哉は仏が弟子を褒める時に使う言葉で、サンスクリット語の美しいを意味する「sadhu」の漢訳です。
一休さん(一休宗純(いっきゅうそうじゅん))は1394年(応永元年)に1月1日に生まれました。母は藤原氏、南朝の高官の血筋で、第100代(北朝第6代)・後小松天皇の寵愛を受けたが、後小松天皇の命を狙っていると讒言(ざげん)されて宮中を追われました。一休さんは第100代・後小松天皇の落胤と言われています。一休さんは6歳で京都・安国寺(あんこくじ)の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門し、15歳の時の漢詩「春衣宿花」が洛中の評判になりました。17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となったが、数年後に謙翁宗為が亡くなって自殺未遂を起こしました。1415年(応永22年)に大徳寺(だいとくじ)の高僧・華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子になり、1474年(文明6年)に第103代・後土御門天皇の勅命によって大徳寺の住持に任ぜられ、1481年(文明13年)に「死にとうない」と言って亡くなりました。
【一休寺・酬恩庵 歴史・簡単概要】
一休寺(いっきゅうじ)・酬恩庵(しゅうおんあん)は鎌倉時代の正応年間(1288年~1293年)に臨済宗の高僧である大応国師(だいおうこくし)・南浦紹明(なんぽしょうみょう)が中国宋の禅僧・虚堂智愚(きどうちぐ)に禅を学び、帰国後に禅の道場として妙勝寺(みょうしょうじ)を創建したのが起源と言われています。その後鎌倉幕府の倒幕運動である1331年(元弘元年)の元弘の乱(げんこうのらん)の兵火によって焼失して荒廃し、室町時代の康正年間(1455年~1456年)に一休さん(一休宗純(いっきゅうそうじゅん))が宗祖の遺風を慕って堂宇を再建し、師恩に報いる意味で酬恩庵と命名しました。ちなみに一休さんは81歳で臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺(だいとくじ)の住職となったが、その時も一休寺から大徳寺に通い、1481年(文明13年)11月21日に88歳で亡くなり、遺骨は一休寺に葬られました。酬恩庵は一休さんが晩年を過ごされたことから一休寺と言われるようになりました。1650年(慶安3年)に加賀前田家3代で、加賀藩第2代藩主・前田利常(まえだとしつね)が伽藍を再建し、絵師・狩野探幽(かのうたんゆう)が障壁画43面を描きました。なお一休寺は本尊・釈迦如来を安置しています。
一休寺は臨済宗大徳寺派の寺院です。
*参考・・・酬恩庵・一休寺(アクセス・歴史・・・)
【一休寺一休善哉の日 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
一休寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報