葵祭行列保存会・路頭の儀(時代行列)と葵祭
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葵祭行列保存会・路頭の儀(時代行列)と葵祭
葵祭では路頭の儀(時代行列)が最大のハイライトです。路頭の儀(時代行列)の保存と執行について、全般の運営を行っているのが葵祭行列保存会です。葵祭行列保存会は2000年(平成12年)に設立され、2012年(平成24年)に京都創造者大賞を受賞しました。
【葵祭日程2025(要確認)】
葵祭2025ではハイライトである路頭の儀が2025年5月15日(木曜日)に行われます。(悪天候の場合、翌16日に順延)なお葵祭では例年5月1日から主な前儀・後儀が行われます。
葵祭2025日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭・路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀2025
【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の第29代・欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来
【葵祭行列保存会・路頭の儀(ろとうのぎ・時代行列)】
葵祭では例年5月15日(順延の可能性あり)に行われている路頭の儀(ろとうのぎ・時代行列)が最大のハイライトです。路頭の儀(時代行列)の保存と執行について、全般の運営を行っているのが葵祭行列保存会です。ちなみに葵祭は第29代・欽明天皇の時代(539年~571年)に始まり、室町時代(1336年~1573年)中期に約10年続いた応仁の乱(おうにんのらん)以降に途絶えました。その後江戸時代中期の1694年(元禄7年)に約200年振りに復興されたが、明治時代にも中断され、1884年(明治17年)に第122代・明治天皇(めいじてんのう)が旧儀を復興させました。路頭の儀(時代行列)は1926年(大正15年)に整備されたが、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)から終戦後の1952年(昭和27年)まで中止され、1953年(昭和28年)に葵祭行列協賛会の後援を得て勅使列(ちょくしれつ)が復活され、1956年(昭和31年)に斎王(さいおう)に代わる斎王代(さいおうだい)が創設されて斎王代・女人列(にょにんれつ)が復活されました。ちなみに斎王は天皇の娘である未婚の内親王(ないしんのう)または女王(じょうおう)から選ばれ、平安時代(794年~1185年)前期の810年(弘仁元年)から鎌倉時代(1185年~1333年)の1212年(建暦2年)まで賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)に仕え、葵祭(賀茂祭)に奉仕していました。その後2000年(平成12年)に葵祭行列保存会が設立され、路頭の儀(時代行列)の保存と執行について、全般の運営を行っています。葵祭行列保存会は2012年(平成24年)に京都創造者大賞を受賞しました。葵祭はかつて国家的行事(勅祭)として行われていたが、行列の運営を民間団体が支えている点が評価されたそうです。葵祭行列保存会は葵祭のヒロインと言われる斎王代を選び、例年4月上旬頃に発表しています。斎王代は葵祭行列保存会が茶道(表千家(おもとせんけ)・裏千家(うらせんけ)・武者小路千家(むしゃのこうじせんけ))関係者の推薦により、着物を着慣れた京都ゆかりの未婚の一般女性から選んでいます。路頭の儀(時代行列)には斎王代だけでなく、上賀茂神社・下鴨神社青年会の氏子なども参加しています。更に京都大学・同志社大学・立命館大学・京都産業大学などを通じてアルバイト募集された男子学生なども参加しています。男子学生は説明を受けて本番に臨みます。葵祭のアルバイトは京都ならではアルバイトです。
時代行列は勅使などの本列と斎王代などの斎王代列に分かれています。本列は乗尻・検非違使志・検非違使尉・山城使・御幣櫃・内蔵寮史生・馬寮使・牛車・御馬・和琴・舞人・陪従・内蔵使・勅使・牽馬・風流傘などで構成されています。斎王代列は命婦・女嬬・采女・斎王代・騎女・蔵人所陪従・牛車などで構成されています。
●猪熊兼勝(いのくまかねかつ)は1937年(昭和12年)に京都市に生まれました。猪熊家は代々、南北に走る猪熊通に住んでいたが、平安時代中期に約10年続いた応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))で焼け出されました。猪熊兼勝は京都府立鴨沂高校を経て、1962年(昭和37年)に関西大学文学部史学科を卒業し、1964年(昭和39年)に同大学大学院文学研究科考古学専攻修士課程を修了しました。その後奈良国立文化財研究所に就職し、同所埋蔵文化財センター研究指導部長・同所飛鳥藤原宮跡発掘調査部部長を歴任しました。1998年(平成10年)に京都橘大学文学部の教授になり、その後同大学の名誉教授になりました。また葵祭行列保存会会長・時代祭考証委員長も歴任しました。なお著書には「飛鳥の古墳を語る」・「埴輪」・「稲と権力」、共著に「平安講社と時代祭」・「都をどりの歴史」などがあります。
【葵祭行列保存会・路頭の儀(時代行列)と葵祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ