舞妓さんの節分豆まき/2/(八坂神社・北野天満宮)
舞妓さんの節分豆まき
舞妓さんの節分豆まき情報を紹介しています。京都には五つの花街(祇園甲部・祇園東・宮川町・先斗町・上七軒)があり、祇園甲部・祇園東・宮川町・先斗町は八坂神社、上七軒は北野天満宮で舞妓さんや芸妓さんが節分に豆まきを行ったり、舞踊を奉納したりします。(詳細下記参照)
【舞妓さんの節分豆まき 日程時間(要確認)】
京都では節分豆まきが例年節分(立春の前日)を中心に行われます。(節分は毎年2月3日ではなく、変動する場合があります。)
●京都の寺院・神社では節分・豆まきなどの行事が行われています。
京都節分・豆まき2025
【舞妓さんの節分豆まき 基礎知識】
節分(せつぶん・せちぶん)は元々は季節が変わる節目で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を差していたが、江戸時代以降は立春の前日だけを指す場合が多くなりました。節分には邪気悪霊(鬼)が外から入ってくるのを防ぐ為、「鬼は外・福は内」と言いながら福豆を撒き、年の数だけ福豆を食べて厄除けをします。豆撒きは平安時代中期の第59代・宇多天皇(867年~931年)の時代に鞍馬山の鬼が都を荒らしたことから毘沙門天のお告げにより、鬼の穴を祈祷で封じ、鬼の目を炒り豆で打ちつぶしたということに由来しているそうです。なお豆などの穀物には魔除けの呪力や生命力を持つという穀霊が宿っているとも言われています。ちなみに豆は鬼の目を表す「魔目(まめ)」から鬼を滅する「魔滅」を意味するようになったそうです。
祇園では節分を「お化け」と言って、通常の着物ではなく、趣向をこらした仮装を楽しみます。「お化け」は子どもの様な格好をしたことから「お坊髪」と言われ、それが転訛して「お化け」になったとも言われています。
【八坂神社節分祭 歴史・簡単概要】
八坂神社節分祭(せつぶんさい)では厄除け・招福を祈願します。節分祭では花街である祇園甲部・祇園東・先斗町・宮川町の舞妓による舞踊奉納や弥栄雅楽会による舞楽奉納などが行われたり、舞妓・芸妓・年男・年女などによる豆撒きが行われたりします。なお節分祭では景品抽選券付福豆・1年の災難を祓う串札(くしふだ)が授与されます。(要確認)
八坂神社節分祭
祇園甲部・祇園東は江戸時代初期に八坂神社の門前で営業していた水茶屋とそこで働く茶点て女が起源と言われています。京都所司代・板倉重宗から茶点て女を置くことが許可され、八坂神社(祇園社)の門前町を祇園町と言うようになりました。なお祇園東は明治時代に祇園甲部から分離独立しました。
先斗町は江戸時代初期に鴨川の州を埋め立て、茶屋や旅籠が置かれたのが始まりと言われています。先斗町の先斗という地名はポルトガル語のponto(先)が語源とも言われています。
宮川町は江戸時代に人気になった出雲・阿国(おくに)の歌舞伎踊りの頃から始まりました。当初は遊女などが接待していたが、江戸時代の三大改革によって打撃を受けました。
八坂神社見どころ(本殿・西楼門など)
【北野天満宮節分祭追儺式 歴史・簡単概要】
北野天満宮節分祭追儺式では向う一年の災厄を祓い、病いを除く祈願します。節分祭追儺式では先ず本殿で神事が行われます。神事終了後、神楽殿で茂山千五郎社中による北野追儺狂言(きたのついなきょうげん)や上七軒の舞妓・芸妓による日本舞踊が奉納されます。その後大蔵流茂山千五郎社中・舞妓・芸妓などによる豆まきが行われます。
北野天満宮節分祭追儺式
上七軒は室町時代に北野天満宮が再建された際、残った資材を使って7軒の茶店が建てられたのが起源です。桃山時代には豊臣秀吉が北野天満宮で茶会(北野大茶湯)を開いた際、茶店が団子を献上しました。
北野天満宮見どころ(本殿・三光門など)
【六波羅蜜寺節分会追儺式 歴史・簡単概要】
六波羅蜜寺節分会追儺式は享保年間(1716年~1735年)から六斎念仏(ろくさいねんぶつ)を中心として行われています。享保年間に慈舟和尚が本堂と仏像の修理を行ったが、その出来栄えが悪く、また勧行の度に土蜘蛛の精が現れて悩まされていました。そこで六斎念仏の講中・かどの群が大太鼓・鉦などを打ち続けると土蜘蛛の精は退散したそうです。
六波羅蜜寺節分会追儺式
節分会追儺式では鬼ではなく、口から糸を吐き散らす土蜘蛛を豆まきと六斎念仏(中堂寺六斎念仏講)で追い払います。ちなみに六斎念仏(芸能六斎)では土蜘蛛という演目が演じられることがあります。なお節分会追儺式では一年間の幸福を祈り、災いを除く星まつり(ほしまつり)や豆まきも行われます。ちなみに豆まきには宮川町の舞妓・芸妓も参加するそうです。(要確認)
【舞妓さんの節分豆まき 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。