藤原道長(ふじわらのみちなが)・「御堂関白記」と葵祭

藤原道長・「御堂関白記」と葵祭

摂関政治の全盛期を子・藤原頼通とともに築いたは藤原道長は1013年(長和2年)に葵祭の摂関賀茂詣を行い、葵祭の路頭の儀・還立の儀を見物したことが日記「御堂関白記」に記されています。藤原道長が葵祭を見物した様子は「栄花物語」にも記されています。

【葵祭日程2026(要確認)】
葵祭2026ではハイライトである路頭の儀が2026年(令和8年)5月15日(金曜日)に行われます。(悪天候の場合、翌16日に順延)なお葵祭では例年5月1日から主な前儀・後儀が行われます。
葵祭2026日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭・路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀2026

【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の第29代・欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来

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【藤原道長(ふじわらのみちなが)・「御堂関白記」】
摂関政治(摂政・関白)の全盛期を子・藤原頼通(ふじわらのよりみち)とともに築いたは藤原道長は1013年(長和2年)に葵祭の摂関賀茂詣(せっかんかももうで)を行い、葵祭の路頭の儀(ろとうのぎ)・還立の儀(かえりだちのぎ)を見物したことが日記「御堂関白記(みどうかんぱくき)」に記されています。藤原道長が度々葵祭を見物した様子は「栄花物語(えいがものがたい)」などにも記されています。
「御堂関白記」1013年(長和2年)4月23日の条に「廿三日、甲申。賀茂に参る(摂関賀茂詣)。東遊有り。小南より立つ。左衛門督(藤原頼通)・右宰相中将(藤原兼隆)・左兵衛督(藤原実成)・大蔵卿(藤原正光)・左大弁(源道方)・権大夫(藤原教通・中宮権大夫)・右三位中将(藤原頼宗)・右兵衛督(藤原憲定)・源宰相(源頼定)、馬に乗る。下御社(下鴨神社)の事了りて、馬(走馬)を馳する間、雨下る。雨止むを待ち、上社(上賀茂神社)に参る。尚、小雨下る。社頭に於いて、舞人・上官等皆に禄を給ふ。事了りて出づる間、雨止む。神馬、両社(下鴨神社・上賀茂神社)に、長えに献ず。舞は兼綱朝臣・能信朝臣・朝任朝臣・兼経・公成・実経・良経・顕基、六位敦親・親業等也。舞人は皆、とき毛。随身は、左は鹿毛、右は河原毛。松尾(松尾大社)の神馬は鹿毛の駮。車に於いて相従ふ上達部は、東宮大夫(藤原斉信)・太皇太后宮大夫(藤原公任)・皇太后宮大夫(源 俊賢)・侍従中納言(藤原行成)等也。」と記され、葵祭前日の申(さる)の日に藤原道長が子・藤原頼通らを伴って、下鴨神社・上賀茂神社に参向したことが分かります。雨が降る天候の中、神馬を下鴨神社・上賀茂神社に寄進し、舞人が神事舞・東遊(あずまあそびの)を舞いました。騎馬や牛車に乗った大勢の貴族が摂関賀茂詣にお供し、華麗な行列だったようです。華麗な行列は藤原頼通の権勢を示しています。
「御堂関白記」1013年(長和2年)4月24日の条に「廿四日、乙酉(賀茂祭、覧男女被馬、解陣) 狭敷(桟敷)に渡りて見物す。三宮(敦良親王(第69代・後朱雀天皇))渡り給ふ。又、先日の仰に依り(先日依仰)、大内に参る。今上(第67代・三条天皇)の宮たち(達知)四所(敦明親王・敦儀親王・敦平親王・師明親王)迎へ奉る。同じく御す。使々(使使)渡る間、日晩る。是、瑞雨下る間、自から晩るる也。倹約の宣旨有りと雖も、過差、例より甚だし。」と記され、酉(とり)の日に藤原道長が桟敷(さじき)を設けて路頭の儀を見物したことが分かります。桟敷で一緒に見物した三宮(敦良親王(第69代・後朱雀天皇))は1009年(寛弘6年)に藤原道長の長女で、一条天皇の中宮・藤原彰子(ふじわらのしょうし)が産み、4歳頃だったことから母・藤原彰子も一緒に見物したかもしれません。また藤原道長の次女・妍子が入内していた三条天皇の皇子である敦明親王・敦儀親王・敦平親王・師明親王も桟敷で見物しました。路頭の儀では勅使一行が御所から出発して一条大路を東側に進み、葵祭に奉仕した斎王一行が賀茂斎院(かもさいいん・紫野斎院)を出発して大宮大路を南下し、一条大宮で勅使一行・斎王一行が合流し、賀茂社(下鴨神社・上賀茂神社)に向かい、絶好の見物場所だった一条大路には貴族の桟敷が建ち並びました。藤原頼通と三宮(敦良親王(第69代・後朱雀天皇))が桟敷で一緒に見物したことは外戚としての政治的立場が表されています。
「御堂関白記」1013年(長和2年)4月25日の条に「廿五日、丙戌。見物す(還立)。還来たる。春宮(敦成親王(第68代・後一条天皇))同車す。」と記され、戌(いぬ)の日に藤原道長が第16代斎王(斎院)・選子内親王(せんしないしんのう・のぶこないしんのう)が上賀茂神社から賀茂斎院に戻る還立の儀(かえりだちのぎ)を見物したことが分かります。牛車で一緒に見物した春宮(敦成親王(第68代・後一条天皇))は1008年(寛弘5年)に藤原道長の長女で、一条天皇の中宮・藤原彰子が産み、5歳頃でした。還立の儀では上賀茂神社から賀茂川を渡り、雲林院(うんりんいん)・知足院(ちそくいん)の前を通って賀茂斎院に戻っていました。藤原頼通と春宮(敦成親王(第68代・後一条天皇))が一緒の牛車で見物したことは外戚としての政治的立場が表されています。

●藤原道長は966年(康保3年)に藤原兼家の子として生まれました。祖父・藤原師輔は村上天皇を支え、娘・安子が冷泉天皇・円融天皇を産み、外戚として権力を握っていました。970年(天禄元年)に藤原実頼が亡くなると父・藤原兼家とその兄・藤原兼通が争い、藤原兼通が関白になると不遇になりました。しかし979年(天元元年)に父・藤原兼家が右大臣になり、次女・詮子が円融天皇の女御になり、980年(天元3年)に懐仁親王(一条天皇)を産みました。藤原道長は980年(天元3年)に従五位下に叙されました。986年(寛和2年)に花山天皇を出家させ、甥・懐仁親王が一条天皇に即位すると父・藤原兼家が摂政になり、988年(永延2年)に参議を経ずに権中納言になりました。990年(正暦元年)に父・藤原兼家が亡くなり、その後兄の藤原道隆・藤原道兼も亡くなると兄・藤原道隆の子・藤原伊周と争い、政争に勝ちました。999年(長保元年)に長女・彰子を一条天皇に入内させ、1012年(長和元年)に次女・妍子を三条天皇に入内させ、三条天皇と対立すると退位に追い込み、1016年(長和5年)に長女・彰子が産んだ後一条天皇を即位させ、1017年(寛仁元年)に子・藤原頼通に摂政を譲りました。1018年(寛仁2年)に三女・威子を後一条天皇に入内させ、「一家立三后(一家三后)」と驚かせました。なお藤原道長は1028年(万寿4年)に亡くなりました。

【藤原道長・「御堂関白記」と葵祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ

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