源高明(みなもとのたかあきら)の「西宮記」と葵祭

源高明の「西宮記」と葵祭

平安時代(794年~1185年)に祭りと言えば、葵祭を指すほど隆盛し、その様子が貴族の日記などに記されています。第60代・醍醐天皇の第10皇子で、左大臣・源高明が記した「西宮記」には鴨祭・賀茂祭とも言われた葵祭のことが記されています。

【葵祭日程2026(要確認)】
葵祭2026ではハイライトである路頭の儀が2026年(令和8年)5月15日(金曜日)に行われます。(悪天候の場合、翌16日に順延)なお葵祭では例年5月1日から主な前儀・後儀が行われます。
葵祭2026日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭・路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀2026

【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の第29代・欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来

スポンサーリンク(Sponsor Link)

【源高明(みなもとのたかあきら)の「西宮記」】
平安時代(794年~1185年)に祭りと言えば、葵祭を指すほど隆盛し、その様子が貴族の日記などに記されています。第60代・醍醐天皇(ごだいごてんのう)の第10皇子で、左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)が記した「西宮記(さいきゅうき)」には鴨祭・賀茂祭とも言われた葵祭のことが記されています。
「西宮記」に「天長八年(831年)四月十八日乙酉。鴨祭(葵祭)。左右馬寮穢有り、仍て親王公卿等に仰せて并びに四門の人馬之を用いる云々、」と記され、831年(天長6年)4月18日に行われた葵祭の際、走馬(そうま)を管理する左右馬寮(めりょう)で穢れ(けがれ)・不浄が発生し、親王・公卿らに命じて、馬寮に代わって四門の人馬が用いられたことが分かります。ちなみに四門は陽明門(ようめいもん)・待賢門(たいけんもん)・美福門(びふくもん)などで、牛車などの牛馬を管理する厩亭がありました。葵祭だけでなく、祭祀では人の死などに穢け・不浄が忌み嫌われ、清浄に戻るまでは祭祀に携われないこととされました。葵祭では馬が行列の騎馬だけでなく、下鴨神社・上賀茂神社の走馬にも用いられ、祭祀に欠かすことのできない存在でした。ちなみに「文徳実録」853年(仁寿3年)4月25日の条に「疱瘡流染行し、人民疫死するを以て、故に賀茂祭(葵祭)を停む。(中略)但し、山城国司斎供するは常の如し。」、また「文徳実録」854年(斉衡元年)4月19日の条に「穢事有るを以て、賀茂祭(葵祭)を停む。但し山城国司斎供するは常の如し。」と記され、葵祭が穢れなどで度々中止されていたことが分かります。更に「三代実録」866年(貞観8年)4月23日の条に「賀茂祭(葵祭)、朝使并斎内親王、社に向かわず。山城国は例に随い奉祭す。」と記され、葵祭に奉仕する第6代斎院(斎王)・儀子内親王(ぎしないしんのう)が下鴨神社・上賀茂神社に何らかの理由で参向しなかったことが分かります。穢け・不浄が発生したのかもしれません。
「西宮記」には「承平七年(937年)四月十五日、賀茂祭(葵祭)云々、使左近中将敦忠朝臣、参内之次。召使舎人等、有東遊云々、後日太閤仰云、賀茂祭(葵祭)使、未必召御前、若可有如此之事者、被問事由、而進退而無仰事、禁中事甚難行、但使其日有此事、其例不豊者」と記され、葵祭の勅使に任じられた左近中将(さこんちゅうじょう)・敦忠が御所に参内し、お伴の舎人達を呼び寄せて東遊(あずまあそび)が舞われました。葵祭の勅使が天皇の御前に召されることは珍しいなどとも記され、平安時代前期の宮中の事情を知ることもできます。

●源高明は914年(延喜14年)に醍醐天皇と源唱の娘・源周子の間に醍醐天皇の第10皇子として生まれました。920年(延喜20年)に源朝臣姓を与えられて臣籍降下しました。930年(延長8年)に无位から従四位上に叙され、その後正四位下・大蔵卿などに昇叙・昇進し、939年(天慶2年)に弱冠26歳で参議に任じられて公卿に列しました。その後も従三位・権中納言などに昇叙・昇進しました。朝廷の実力者で、源高明と同様に故実に通じた藤原師輔の娘を妻とし、藤原師輔が後援者になりました。妻の姉・藤原安子が村上天皇の中宮になり、東宮(皇太子)の憲平親王・為平親王・守平親王を産んだが、960年(天徳4年)に藤原師輔、964年(康保元年)に藤原安子が亡くなると後援者を失いました。968年(康保4年)に憲平親王が冷泉天皇に即位すると左大臣になったが、娘が為平親王の妃になったことから藤原氏から警戒され、為平親王ではなく、守平親王が東宮(皇太子)になりました。969年(安和2年)の安和の変で筑紫に流され、配流後に自邸の西宮殿が焼失し、子の致賢・妻の愛宮が次々に出家しました。971年(天禄2年)に赦され、972年(天禄3年)に都に帰京したが、政界に戻らずに葛野に隠棲しました。源高明は学問を好み、故実に詳しく、「西宮記」を記しました。「西宮記」は平安時代以後の朝儀の典拠になりました。また和歌も優れ、勅撰和歌集に22首が採録されています。源高明は「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの1人とも言われています。なお源高明は983年(天元5年)に亡くなりました。

【源高明の「西宮記」と葵祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ

関連記事

京都観光おすすめ

  1. 錦市場(Nishiki Market)
  2. 竹林の道(Bamboo Forest Path)
  3. 嵐山
ページ上部へ戻る