カテゴリー:その他

  • 西行法師(さいぎょうほうし)と嵐山

    嵐山は古来から山水の美を兼ねた景勝地で、平安時代以降から皇族・貴族らが離宮・山荘などを営み、旧跡が残されています。西行法師が1140年(保延6年)に勝持寺で出家・隠棲し、その後営んだ草庵跡とも言われる西行井戸が残されています。
  • 向井去来(むかいきょらい)と嵐山

    嵐山は古来から山水の美を兼ねた景勝地で、平安時代以降に皇族・貴族らが離宮・山荘などを営みました。江戸時代中期には俳諧師・松尾芭蕉の門人で、俳諧師・向井去来が落柿舎を営みました。松尾芭蕉は落柿舎を3度訪れています。
  • 関白・藤原道長(ふじわらのみちなが)と嵐山

    嵐山は古くから紅葉名所とされ、天皇(上皇・法皇)・貴族などが和歌に詠んだり、舟遊びを楽しんだりしました。平安時代(794年~1185年)中期には御堂関白とも言われた藤原道長が舟遊びを催し、平安時代後期の歴史物語「大鏡」に描かれました。
  • 歌人・藤原定家(ふじわらのていか)と嵐山

    嵐山は古くから紅葉名所とされ、モミジなどが風に舞い散らされる様子から嵐山と名付けられたと言われています。「小倉百人一首」の撰者である藤原定家は「吹きさらふ もみぢの上の 霧はれて 嶺たしかなる あらし山かな」と詠みました。
  • 歌人・藤原公任(ふじわらのきんとう)と嵐山

    嵐山は古くから紅葉名所とされ、モミジなどが風に舞い散らされる様子から嵐山と名付けられたと言われています。平安時代中期の公卿・歌人である藤原公任は嵐山の紅葉を「朝まだき 嵐の山の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき」と詠みました。
  • 作家・谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)と哲学の道

    哲学の道には道沿いに寺社が建立されたり、カフェなどが営業したりしています。かつて作家・谷崎潤一郎の義理の息子の嫁で、「瘋癲老人日記」に登場する颯子のモデルとされている渡辺千萬子が喫茶店「アトリエ・ド・カフェ」を経営していました。
  • 哲学者・田邊元(たなべはじめ)と哲学の道

    哲学の道は1890年(明治23年)に琵琶湖疏水分線が完成した際に管理用道路として整備されました。哲学の道は哲学者である西田幾多郎・田邊元らが散策するようになると「哲学の小径」・「思索の道」などと言われるようになりました。
  • 哲学の道保勝会(てつがくのみちほしょうかい)と哲学の道

    哲学の道は1890年(明治23年)に琵琶湖疏水分線が完成した際に管理用道路として整備されました。疏水事務所が維持管理を行っています。哲学の道保勝会は風致維持・改善活動を行なったり、小中学校に講師の派遣やガイドを行なったりしています。
  • 哲学者・西田幾多郎(にしだきたろう)と哲学の道

    哲学の道では先ず周辺に文人が多く住むようになり、「文人の道」と言われました。その後西田幾多郎・田邊元らが散策するようになり、「哲学の小径」・「散策の道」・「思索の道」・「疏水の小径」などと言われるようになりました。
  • 第3代京都府知事・北垣国道(きたがきくにみち)と哲学の道

    哲学の道は1890年(明治23年)に琵琶湖疏水分線が完成した際に管理用道路として整備されました。分線は蹴上から北に向かって、途中に水路閣があります。琵琶湖疏水は第3代京都府知事・北垣国道が京都近代化政策の一環として計画しました。
  • 桜守・佐野藤右衛門(さのとうえもん)と哲学の道

    哲学の道では日本画家・橋本関雪が妻・よねとともに染井吉野の苗木を京都市に寄贈しました。その後桜守として知られている桜守と言われる佐野藤右衛門らが桜の木の植え替えを行い、琵琶湖疏水事務所が桜並木などを管理しています。
  • 日本画家・橋本関雪(はしもとかんせつ)と哲学の道

    哲学の道では北端近くに橋本関雪が住宅を構えて住んでいました。橋本関雪は1921年(大正10年)に京都に対する恩返しの為、妻・よねとともに300本の染井吉野の苗木を京都市に寄贈し、銀閣寺道交差点から洗心橋付近に植樹されました。

京都観光おすすめ

  1. 錦市場(Nishiki Market)
  2. 竹林の道(Bamboo Forest Path)
  3. 嵐山
ページ上部へ戻る