浄妙山(ちまき販売日程・ご利益・・・)祇園祭後祭山鉾
浄妙山
浄妙山(ちまき販売日程・ご利益・マップ)を紹介しています。浄妙山は重さが1トン未満の小型の山鉾で、浄妙山は1180年(治承4年)の宇治川の合戦の際、三井寺の僧兵・筒井浄妙の先陣争いに由来しています。浄妙山は黒韋威肩白胴丸が国の重要文化財に指定されています。
★ちまき販売(後祭)は例年宵山の7月21日~23日で、一部の山鉾で7月20日から始まります。ネット販売を行う山鉾もあります。
祇園祭ちまき販売(後祭)
★祇園祭最新情報。
【浄妙山の場所位置 マップ・アクセス】
場所・・・京都府京都市中京区六角通烏丸西入骨屋町
位置・・・烏丸通(南北)・六角通(東西)交差点の西約40メートルの六角通
最寄り駅・バス停・・・四条駅(徒歩約7分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅からは地下鉄烏丸線
●祇園祭山鉾マップ(後祭)by グーグルマップ
【ちまき(粽)などの授与品】
ちまき(粽)・手拭・勝お守り・懐紙・交通安全のお守りなど
【搭乗(要確認)】
–
【ご利益】
勝ち運
【浄妙山 歴史・簡単概要】
浄妙山(読み方:じょうみょうやま)は起源が明確ではありません。浄妙山は室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))前の山鉾と地名を記した「祗園社記(ぎおんしゃき)」第15(八坂神社記録)に記されている「しゃうめう山(四条坊門烏丸と室町間)」とも言われ、応仁の乱前には既に創建されていたと言われています。
浄妙山は平安時代末期の1180年(治承4年)に行われた宇治川(うじがわ)の合戦の際の僧兵・筒井浄妙(つついじょうみょう)と一来法師(いちらいほうし)の先陣争い(橋合戦)に由来しています。筒井浄妙が先陣争いで一番乗りしようと橋桁を渡ろうとした際、後から来た一来法師が「悪しゅう候(あしゅうそろう)、御免あれ(ごめんあれ)」と言いながら筒井浄妙の頭の上をひらりと飛び越え、一番乗りを果たして先陣を取りました。浄妙山は宇治川の合戦の先陣争いから悪しゅう候山(あしゅうそうろうやま)とも、胴掛のビロード織からビロード山とも言われています。また宇治川の合戦は平家の勝ちに終わったが、その後平家が滅亡したことから浄妙山は勝ち運の山とも言われているそうです。
筒井浄妙は近江(滋賀)・三井寺(みいでら・園城寺(おんじょうじ))浄妙坊の僧兵(法師)です。1180年(治承4年)に源頼政(みなもとのよりまさ)や第77代・後白河天皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)などが平家打倒の挙兵をした際に宇治川の合戦に参戦し、平家方の兵を83人を討ったが、自らも鎧兜に63本もの矢を射られ、5本は鎧の内側まで達したと言われています。筒井浄妙は大声で「日ごろは音にもききつらむ、いまは目にもみ給へ。三井寺にはそのかくれなし。 堂衆のなかに、筒井の浄妙明秀といふ、一人当千の兵者ぞや。 われと思はむ人は、寄りあへや、見参せむ」と言ったとも言われています。
一来法師は筒井浄妙の弟子とも言われています。
*参考・・・浄妙山
【特徴・懸装品(変更の場合あり)】
●浄妙山は総重量約0.78トンです。(2008年測定)
●御神体の一来法師と筒井浄妙は一来法師が筒井浄妙の頭上を飛び越える姿をしています。一来法師の左手と筒井浄妙の頭は木片の楔(くさび)だけで繋がり、黒漆塗の橋桁には何本もの矢が刺さっています。なおかつての筒井浄妙の鎧・黒韋威肩白胴丸(くろかわおどしかたじろどうまる)は室町時代に作られ、重要文化財に指定されています。
●水引は布ではなく、波濤文様(はとうもんよう)の彫刻です。見送は本山善右衛門が織った雲龍文様(うんりゅうもんよう)のかがり織です。胴懸はビロード織の琴棋書画図(きんきしょが)だったが、長谷川等伯(はせがわとうはく)の原画による柳橋水車図(りゅうきょうすいしゃず)に代えられました。また前懸が長谷川久蔵(はせがわきゅうぞう)筆の桜図と後懸が長谷川等伯筆の楓図を原画としたものにそれぞれ新調しました。なお桜図・楓図はともに智積院所蔵の障壁画です。
【行事・イベント(要確認)】
●7月21日~7月23日の宵山では夕方から駒形提灯を灯し、祇園囃子を奏でます。
祇園祭宵山(後祭)
●7月24日の山鉾巡行では烏丸御池から御池通・河原町通・四条通の順に巡行します。
祇園祭山鉾巡行(後祭)
★祇園祭の主要行事の日程を確認できます。(下記リンク参照)
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【浄妙山 備考(要確認)】
●ちまき販売などの日程時間は必ず確認して下さい。
祇園祭2025日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)