記録上最初の桜のお花見|神泉苑で行われた花宴の節

記録上最初の桜のお花見
記録上最初の桜のお花見は812年(弘仁3年)に第52代・嵯峨天皇が神泉苑に行幸した際のものです。奈良時代(710年~794年)にお花見と言えば、中国から伝わった梅だったが、平安時代(794年~1185年)前期から桜のお花見が貴族の中に急速に広まり、日本人の桜好きに繋がっていると言われています。
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【神泉苑(しんせんえん)の花宴の節(かえんのせち)】
記録上最初の桜のお花見は平安時代(794年~1185年)初期の史書「日本後紀(にほんこうき)」に記されています。「日本後紀」には「辛丑(十二日)、幸神泉苑。覧花樹。命文人賦詩。賜綿有差。花宴之節始於此矣。」と記され、812年(弘仁3年)3月28日(旧暦2月12日)に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)が宮中の庭園だった神泉苑(しんせんえん)に行幸してお花見を楽しみ、花宴の節(かえんのせち)の起源になったことが記されています。文人には和歌を詠むことが命じられていました。嵯峨天皇は811年(弘仁2年)に地主神社(じしゅじんじゃ)に行幸した際、地主桜(じしゅざくら)の美しさに三度車を返され、御車返しの桜(みくるまがえしのさくら)の伝承が残され、その後毎年桜を地主神社から献上させ、812年(弘仁3年)のお花見に繋がったとも言われています。嵯峨天皇は在位中(809年~823年)、観射(かんしゃ)・相撲(すもう)・七夕(たなばた)などで合計44回も神泉苑に行幸した記録が残され、812年(弘仁3年)のお花見は神泉苑への13回目の行幸で初めて行われました。その後嵯峨天皇は817年(弘仁8年)・820年(弘仁11年)を除き、退位する823年(弘仁14年)までの毎年3月に神泉苑に行幸し、7回ほどお花見を楽しみました。「類聴衆国史」には814年(弘仁5年)3月4日に右大臣・藤原園人が「去大同二年(807年)。停正月二節。迄于三年。又廢三月節。大曁爲省費也。今正月二節復于舊例。九月節准三月。去弘仁三年(812年)已來。更加花宴。准之延暦。花宴獨餘。比之大同。四節更起。顧彼祿賜。庫貯馨乏。伏望。九月者不入節曾之例。須臨時擇定堪文藻者。下知所司。庶絶他人之望。省大藏之損。」と奏上し、朝廷の財政はひっ迫していたが、812年(弘仁3年)に桜のお花見である花宴の節(かえんのせち)が節会行事に追加されたことが分かります。その後831年(天長8年)から天皇主催の春の恒例行事として取り入れられ、平安時代中期に紫式部が記した「源氏物語」の第八帖「花宴(はなのえん)」に描かれています。
●神泉苑は元々、794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇による平安京遷都の際、大内裏南側に接して造営された南北四町・東西二町の八町(南北約500メートル・東西約240メートル)の禁苑(宮中の庭)でした。北側を二条大路、南側を三条大路、東側を東大宮大路、西側を壬生大路東に囲まれ、苑内は大池・泉・小川・小山・森林などを取り込み、中国風の乾臨閣(けんりんかく)を主殿に二階建ての右閣・左閣や西釣台・東釣台・滝殿・後殿などの宮殿が造営されました。800年(延暦19年)に桓武天皇が行幸し、802年(延暦21年)に雅宴が催されたと言われています。神泉苑では重陽節会・相撲節会などの節会行事が行われたり、天皇や廷臣の宴遊の場になりました。また神泉苑では824年(天長元年)に真言宗の宗祖である弘法大師・空海が第53代・淳和天皇の勅命によって祈雨を行ったり、863年(貞観5年)に流行した疫病を鎮める御霊会が行われたりし、宗教的な霊場としての性格を強めました。ただ「日本紀略」896年(寛平8年)2月の条に「廿三日甲成。天皇幸神泉苑。召文人賦詩。其題。花間理管絃。又召學生奉試。賦問題。及第者三人也。」と記され、宇多天皇(うだてんのう)の時代に神泉苑は詩宴の場所に使われていました。なお1180年(治承4年)に大風によって荒廃したと言われています。
【記録上最初の桜のお花見 備考】
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