清水寺・八坂神社散策コース(三年坂・二年坂・八坂の塔)

清水寺・八坂神社散策コース
清水寺・八坂神社散策コースは世界遺産である清水寺と7月に祇園祭を行っている八坂神社を結ぶ散策コースです。南側の清水寺から北側の八坂神社までは距離が約1.5キロあり、徒歩で約20分掛かります。清水寺は音羽山中腹に建立され、八坂神社までは下り坂や下り階段が多く、比較的楽に散策することができます。清水寺・八坂神社散策コース周辺には京都の風情を感じられる三年坂(産寧坂)や二年坂(二寧坂)・清水寺の鎮守だった地主神社・八坂の塔(五重塔)がある法観寺・坂本龍馬の墓がある京都霊山護国神社・豊臣秀吉の正室である北政所が創建した高台寺・北政所(ねねん)ゆかりのねねの道などがあります。清水寺・八坂神社散策コースは石段や石畳が多く、八坂のシンボルである八坂の塔(五重塔)も建立されていることからインスタ映えの写真が撮影できたり、風情を感じたりすることができます。一番京都らしい場所です。
【清水寺・八坂神社散策コース】
【清水寺(きよみずでら) 概要】
清水寺は778年(宝亀9年)に興福寺の僧で、子島寺で修行していた延鎮上人・賢心が「南の地を去れ」という霊夢により、音羽山に庵を結んだのが起源と言われています。延鎮上人は音羽山で長年修行を続ける行叡居士と出会い、行叡居士から霊木を授かって観音像を刻み、行叡居士の旧庵に観音像を祀ったと言われています。780年(宝亀11年)に坂上田村麻呂が妻の病気平癒の為に鹿の生き血を求めて音羽山に上ったが、延鎮上人から鹿狩りの殺生を戒められ、観世音菩薩の教えを諭され、自邸を仏殿に寄進しました。805年(延暦24年)に桓武天皇の御願寺になり、810年(弘仁元年)に鎮護国家の道場になり、嵯峨天皇から「北観音寺」の宸筆を賜りました。しかし1063年(康平6年)に全山焼失したと言われています。その後室町時代中期に応仁の乱で伽藍の多くが焼失し、1629年(寛永6年)の大火でも伽藍の多くを焼失しました。清水寺では記録に残るだけでも9回も焼失しました。1633年(寛永10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光の寄進によって本堂(清水の舞台)などが再建されました。
清水寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)・清水寺見どころ
【三年坂(さんねんざか) 概要】
三年坂(産寧坂)は八坂から清水寺に向かう参道の一部です。三年坂は二年坂から始まる石畳の坂道・階段で、長さ約100メートルです。三年坂周辺には土産物店・陶磁器店・料亭などが立ち並び、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。三年坂は清水寺子安塔の子安観音に「お産が寧かになるように」と祈願する為に坂を上ったことから産寧坂と言われるようになったとも言われています。また清水寺の参拝者は念願を強くしながら坂を上り、願いが叶うとお礼の為に再度坂を上ったことから再念坂と言われるようになったとも言われています。更に三年坂は808年(大同3年)にできたことに由来しているとも言われています。
三年坂(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【二年坂(にねんざか) 概要】
二年坂(二寧坂)は八坂から清水寺に向かう参道の一部です。二年坂は三年坂に通じる石畳の坂道・階段で、長さ約100メートルです。二年坂周辺には土産物店・飲食店などが立ち並んでいます。二年坂は清水寺に向かう参道の内、三年坂(産寧坂)の手前にあることから二年坂と言われるようになったとも言われています。また二年坂は807年(大同2年)に整備されたことに由来するとも言われています。更に高台寺開基で、関白・豊臣秀吉の正妻・北の政所が秀吉の子供誕生を念じて清水寺に参詣したことに由来するとも言われています。
二年坂(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【地主神社(じしゅじんじゃ) 概要】
地主神社は社伝によると神代の昔、日本建国前に祀られたと言われています。それを証明するようにアメリカの原子物理学者・ボースト博士は「恋占いの石」が縄文時代の遺物であることを確認しました。811年(弘仁2年)に嵯峨天皇が行幸して御車返しの桜の由来になり、970年(天禄元年)に円融天皇が臨時祭を行って以来、例大祭・地主祭になりました。1633年(寛永10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光が現在の社殿を再建しました。江戸時代まで清水寺の鎮守社だったが、神仏分離令によって清水寺から独立しました。
地主神社(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)・地主神社見どころ
【法観寺(ほうかんじ) 概要】
法観寺は起源が明確ではありません。法観寺は伝承によると592年(崇峻天皇5年)に用明天皇の皇子・聖徳太子が如意輪観音の夢告により、五重塔を建立して仏舎利を三粒を収めたのが起源とも言われています。また法観寺は794年(延暦13年)の平安京遷都前に渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されていたとも言われています。その後1179年(治承三年)に焼失したが、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が再建しました。その後も度々焼失し、その都度再建され、1440年(永享12年)に室町幕府6代将軍・足利義教が現在の五重塔(八坂の塔)を再建しました。
八坂の塔(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ) 概要】
京都霊山護国神社は1862年(文久2年)に正法寺の朱印地にあった神道葬祭場・霊明社で神葬祭が行われたのが起源と言われています。1868年(明治元年)に明治天皇から明治維新を目前に倒れた志士達の御霊を奉祀する為に東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔が発せられ、公家や諸藩が霊山の山頂に祠宇を建立し、霊山官祭招魂社を創立しました。1936年(昭和11年)の支那事変をきっかけに国難に殉じた京都府出身者の英霊を手厚く祀る為、霊山官祭招魂社造営委員会が組織され、境内を拡大して新たな社殿が造営されました。1939年(昭和14年)の内務大臣布告により、京都霊山護国神社に社名を改めました。
京都霊山護国神社(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【高台寺(こうだいじ) 概要】
高台寺は1606年(慶長11年)に関白・豊臣秀吉の正室・北政所が秀吉の菩提を弔う為、曹洞宗の僧・弓箴善彊を開山として創建しました。当初、実母・朝日局が弔われている菩提寺・康徳寺に弔うとしたが、手狭だったことから岩栖院を南禅寺山内に移転させ、康徳寺を移して高台寺を創建しました。北政所は門前に伏見城の化粧御殿などを移して屋敷を構え、晩年の19年間を過ごして亡くなり、その後甥で、備中足守藩2代藩主・木下利房が塔頭・圓徳院を創建しました。高台寺の寺号は北政所が1603年(慶長8年)に後陽成天皇から賜った院号・高台院湖月心尼に由来しています。その後1624年(寛永元年)に臨済宗・建仁寺から三江紹益を招き、曹洞宗から臨済宗に改めました。
京都・高台寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)・高台寺見どころ
【ねねの道(ねねのみち) 概要】
ねねの道は高台寺の西側を南北に走り、北側の円山公園から南側の一念坂(一年坂)・維新の道を結んでいます。ただ大雲院・祇園閣近くで折れ曲がっています。ねねの道の名称は関白・豊臣秀吉の正室・北政所(ねね)に由来しています。ねねの道では御影石を敷き詰めた石畳の道に整備されました。ねねの道では1998年(平成10年)に電線の地中化工事が完了しました。ねねの道は産寧坂伝統的建造物群保存地区(国の重要伝統的建造物群保存地区)に指定されています。
ねねの道(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【八坂神社(やさかじんじゃ) 概要】
八坂神社は起源が明確ではありません。八坂神社は656年(斉明天皇2年)に高麗から来日した調進副使・伊利之使主が新羅・牛頭山に座した素戔嗚尊を山城八坂郷に奉斎したのが起源とも、876年(貞観18年)に南都の僧・円如が堂を建立して薬師千手等の像を奉安し、その後天神が東山の麓・祇園林に垂跡したのが起源とも言われています。また829年(天長6年)に紀百継が山城八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀を行ったのが感神院の起源とも言われています。その後869年(貞観11年)に祇園祭の起源とも言われる祇園御霊会が神泉苑で行われ、970年(天禄元年)から毎年御霊会が行われるようになりました。995年(長徳元年)に王城鎮護の社として二十一社(二十二社)に数えられ、1072年(延久4年)に後三条天皇が初めて行幸しました。室時代中期に応仁の乱で祇園祭が33年間中絶し、1500年(明応9年)に規模を縮小して再興されました。1654年(承応3年)に江戸幕府4代将軍・徳川家綱が本殿を再建しました。
八坂神社(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)・八坂神社見どころ
【清水寺・八坂神社散策コース 備考】
散策コースではグーグルマップを使用して、スポットを紹介しています。