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過去の記事一覧
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藤原道隆(ふじわらのみちたか)・「大鏡(おおかがみ)」と葵祭
関白・藤原道隆は無類の酒好きで、歴史物語「大鏡・平安時代末期成立」の中に葵祭の斎王の還御・摂関賀茂詣の話題が記されています。無類の酒好きが影響したのだろうか、藤原道隆は飲水病が原因で亡くなったとも言われています。 -

「延喜式(えんぎしき)」の「斎院司式」と葵祭
「延喜式」の「斎院司式」には葵祭や賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)に奉仕した斎王(斎院)の選定方法や潔斎などが記されています。「延喜式」には斎王制が倣った三重・伊勢神宮に仕えた斎宮の潔斎なども記されています。 -

和泉式部(いずみしきぶ)・敦道親王(あつみちしんのう)と葵祭
中古三十六歌仙・和泉式部と冷泉天皇の第4皇子・敦道親王は恋愛関係にあり、「大鏡」・「栄花物語」に記されています。「和泉式部日記」には敦道親王が和泉式部に贈った贈答歌が記されています。 -

藤原道長(ふじわらのみちなが)・「御堂関白記」と葵祭
摂関政治の全盛期を子・藤原頼通とともに築いたは藤原道長は1013年(長和2年)に葵祭の摂関賀茂詣を行い、葵祭の路頭の儀・還立の儀を見物したことが日記「御堂関白記」に記されています。 -

光源氏(ひかるげんじ)・路頭の儀(ろとうのぎ)と葵祭
紫式部作の「源氏物語」葵巻では葵祭(賀茂祭)の斎王御禊・路頭の儀を題材に物語が描かれています。主人公である光源氏は斎王御禊に勅命で供奉したが、路頭の儀に供奉せずに正室である葵の上とともに見物しています。 -

紫式部(むらさきしきぶ)の「紫式部日記」と葵祭
女流歌人・紫式部は葵祭(賀茂祭)を題材に「源氏物語」を執筆するだけでなく、「紫式部日記」にも葵祭を題材に日記を記しています。「紫式部日記」には葵祭に奉仕する斎王(斎院)や斎王が住する賀茂斎院などが記されています。 -

清少納言の父・清原元輔(きよはらのもとすけ)と葵祭
「枕草子」の作者である清少納言の父・清原元輔は葵祭(賀茂祭)の際に勅使らとともに奉幣使を務めたが、一条大路で落馬したことが「今昔物語集」・「宇治拾遺物語」に残されています。 -

藤原頼通(ふじわらのよりみち)・斎院御禊と葵祭
摂関政治の全盛期を父・藤原道長とともに築いた藤原頼通は葵祭の諸行事の一つである斎王御禊に供奉しました。藤原頼通の時代には葵祭の前日の申の日に摂関賀茂詣を行うことが摂関家の行事として確立されました。 -

賀茂警固儀(かもけいごのぎ)・解陣の儀と葵祭
葵祭ではかつて午の日に斎王御禊・御阿礼祭、申の日に賀茂警固儀・摂関賀茂詣、酉の日に宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀・還立の儀、戌の日に解陣の儀が行われていました。その後賀茂警固儀は申の日から未の日に行われるようになりました。 -

岩上(がんじょう)・神山(こうやま)・社頭の儀と葵祭
葵祭の社頭の儀は下鴨神社と上賀茂神社で行われます。上賀茂神社では社頭の儀が御手洗川(ならの小川)を跨ぐように建立され橋殿(重要文化財)と岩上を舞台として行われ、勅使が橋殿、上賀茂神社の宮司が岩上に坐します。 -

大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)と葵祭
葵祭では流鏑馬が698年(文武天皇2年)以降に禁じられたり、京都の地元民のみに参加が制限されたりしたが、738年(天平10年)に乱闘しないことを条件に解禁されました。大伴坂上郎女は737年(天平9年)に葵祭を見物したと言われています。 -

宮中の儀(きゅうちゅうのぎ)・清涼殿と葵祭
葵祭ではかつて酉(とり)の日に宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀が行われていたが、現在は5月15日に路頭の儀・社頭の儀が行われています。(順延の可能性あり)宮中の儀は江戸時代末期までは御所・清涼殿で行われていました。












