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過去の記事一覧
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「祇園本縁雑実記(ぎおんほんえんざつじっき)」と祇園祭
「祇園本縁雑実記」は江戸時代(1603年~1868年)中期の1670年(寛文10年)以降に成立し、八坂神社に残されている書物です。「祇園本縁雑実記」には八坂神社や祇園祭などが記され、祇園祭の創始についても記されています。 -

九条尚経の「後慈眼院殿御記(ごじげんいんどのぎょき)」と祇園祭
左大臣・九条尚経は室町時代(1336年~1573年)中期に活動し、「後慈眼院殿御記」が残されていることから室町時代の政治などが記されています。また応仁の乱で中絶し、33年振りに再興された祇園祭なども記されています。 -

「蔭凉軒日録(おんりょうけんにちろく)」と祇園祭
「蔭凉軒日録」は室町幕府4代将軍・足利義持が相国寺山内に創設したとも言われる蔭凉軒の歴代軒主による公用日記で、禅宗の寺院・僧侶、室町幕府の政治・経済・財政などが記されています。また祇園祭なども記されています。 -

中原師郷(なかはらもろさと)の「師郷記」と祇園祭
中原師郷は大外記を歴任し、日記「師郷記」には職務である公事や朝儀などが豊富に記されるだけでなく、世上の事件なども記されています。「師郷記」には南北朝時代から室町時代に人気だった祇園祭も記されています。 -

東坊城秀長(ひがしぼうじょうひでなが)の「迎陽記」と祇園祭
東坊城秀長は室町幕府3代将軍・足利義満から信任され、その子である室町幕府4代将軍・足利義持などに学問を教授したこともあり、足利義満に関する記録が日記「迎陽記」多く残されています。祇園祭を見物した記録も残されています。 -

山口八坂神社の鷺の舞(さぎのまい)と祇園祭
祇園祭の鷺舞は江戸時代中期頃に途絶えたが、1956年(昭和31年)に島根県津和野町・弥栄神社から鷺舞を逆輸入して復興させました。祇園祭の鷺舞は山口八坂神社の鷺の舞に伝わり、山口八坂神社の鷺の舞は弥栄神社の鷺舞に伝わったとされています。 -

狂言「煎物(せんじもの)」と祇園祭
祇園祭は皇族・貴族などの日記に記されたり、屏風・絵図などに描かれたり、狂言などの芸能の題材になったりしています。狂言「煎物」は玄恵法院作で、祇園祭の囃子物の稽古に便乗し、煎物売りが煎物を売るという内容です。 -

満済の「満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)」と祇園祭
満済は足利義満やいずれもその子である足利義持や足利義教から信任され、内政・外交などの幕政の中枢に関与し、「黒衣の宰相」とも言われ、「満済准后日記」には室町幕府の政治などが記されています。また祇園祭なども記されています。 -

外交使節(中国・朝鮮)と祇園祭
室町時代の祇園祭では白拍子が笛太鼓に合わせて歌ったり、踊ったりする久世舞車を室町将軍家が調進したこともあり、祇園祭の見物には内政・外交などの政治的な意味合いもあったとも言われています。 -

弥栄神社(やさかじんじゃ)の鷺舞(さぎまい)と祇園祭
祇園祭ではかつて鷺舞が舞われていたが、江戸時代中期頃に途絶えたと言われています。1956年(昭和31年)に鷺舞保存会が祇園祭の鷺舞が伝えられていた島根県津和野町・弥栄神社から鷺舞を逆輸入して復興させました。 -

滋賀・日吉大社(ひよしたいしゃ)と祇園祭
八坂神社は974年(天延2年)に延暦寺の別院になったと言われ、祇園祭は延暦寺とその守護神・日吉大社から大きな影響を受けました。強訴が受け入れられなかった場合、日吉大社の山王祭を行わず、例年6月に行われていた祇園祭も度々延期になりました。 -

北畠笠鷺(きたばたけかささぎほこ)と祇園祭
北畠笠鷺は相国寺に所属する北畠散所が祇園祭に奉納していた鉾です。北畠笠鷺は大舎人座に属する織物座の商人が奉納していた大舎人の鵲鉾と一対になっていたと言われています。北畠散所は京都北畠(上京区)を根拠地として活動していました。













