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過去の記事一覧
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賀茂競馬・堀河天皇(ほりかわてんのう)と葵祭
葵祭の前儀・賀茂競馬は「競馬略記」によると元々、天下太平と五穀豊穣を祈願する宮中武徳殿の競馬会式だったが、平安時代後期の1093年(寛治7年)に第73代・堀河天皇が上賀茂神社に移し、10番・20匹の競馳が行われるようになりました。 -

馬・「山城国風土記(やましろこくふうどき)」逸文と葵祭
葵祭では前儀に賀茂競馬・流鏑馬神事が行われ、社頭の儀で走馬の儀が行われ、馬を使う行事が多く行われています。馬を使う行事は「山城国風土記」逸文に欽明天皇の時代に記され、葵祭では馬に鈴を懸け、人に猪の頭を被らせて駆競が行われたと言われています。 -

作家・谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)と哲学の道
哲学の道には道沿いに寺社が建立されたり、カフェなどが営業したりしています。かつて作家・谷崎潤一郎の義理の息子の嫁で、「瘋癲老人日記」に登場する颯子のモデルとされている渡辺千萬子が喫茶店「アトリエ・ド・カフェ」を経営していました。 -

哲学者・田邊元(たなべはじめ)と哲学の道
哲学の道は1890年(明治23年)に琵琶湖疏水分線が完成した際に管理用道路として整備されました。哲学の道は哲学者である西田幾多郎・田邊元らが散策するようになると「哲学の小径」・「思索の道」などと言われるようになりました。 -

哲学の道保勝会(てつがくのみちほしょうかい)と哲学の道
哲学の道は1890年(明治23年)に琵琶湖疏水分線が完成した際に管理用道路として整備されました。疏水事務所が維持管理を行っています。哲学の道保勝会は風致維持・改善活動を行なったり、小中学校に講師の派遣やガイドを行なったりしています。 -

哲学者・西田幾多郎(にしだきたろう)と哲学の道
哲学の道では先ず周辺に文人が多く住むようになり、「文人の道」と言われました。その後西田幾多郎・田邊元らが散策するようになり、「哲学の小径」・「散策の道」・「思索の道」・「疏水の小径」などと言われるようになりました。 -

第3代京都府知事・北垣国道(きたがきくにみち)と哲学の道
哲学の道は1890年(明治23年)に琵琶湖疏水分線が完成した際に管理用道路として整備されました。分線は蹴上から北に向かって、途中に水路閣があります。琵琶湖疏水は第3代京都府知事・北垣国道が京都近代化政策の一環として計画しました。 -

桜守・佐野藤右衛門(さのとうえもん)と哲学の道
哲学の道では日本画家・橋本関雪が妻・よねとともに染井吉野の苗木を京都市に寄贈しました。その後桜守として知られている桜守と言われる佐野藤右衛門らが桜の木の植え替えを行い、琵琶湖疏水事務所が桜並木などを管理しています。 -

日本画家・橋本関雪(はしもとかんせつ)と哲学の道
哲学の道では北端近くに橋本関雪が住宅を構えて住んでいました。橋本関雪は1921年(大正10年)に京都に対する恩返しの為、妻・よねとともに300本の染井吉野の苗木を京都市に寄贈し、銀閣寺道交差点から洗心橋付近に植樹されました。 -

嵐山城・香西元長(こうざいもとなが)と嵐山
嵐山は桜名所・紅葉名所だけでなく、山頂に嵐山城が築城されていた場所でもありました。嵐山城は応仁の乱後の1497年(明応6年)に山城国守護代・細川正元の家臣で、山城国半国守護代・香西元長が築城したと言われています。 -

俳諧師・松尾芭蕉(まつおばしょう)と嵐山
嵐山は鎌倉時代中期に後嵯峨上皇が奈良・吉野山から桜を移植すると桜名所になり、江戸時代中期に俳諧師・松尾芭蕉が「花の山 二丁上がれば 大悲閣」と詠みました。松尾芭蕉は生涯で3度嵐山(嵯峨野)を訪れたと言われています。 -

金春禅鳳(こんぱるぜんぽう)作の能「嵐山」と嵐山
嵐山は古くから紅葉が和歌に詠まれ、鎌倉時代中期に後嵯峨上皇が吉野山から桜を移植すると桜も和歌に詠まれました。更に嵐山の桜は室町時代に金春禅鳳作の能「嵐山」に登場します。能「嵐山」はシテ方の五流で演じられています。













