赤穂浪士ゆかりの場所(大石神社・法住寺・・・)
赤穂浪士ゆかりの場所
赤穂浪士ゆかりの場所を紹介しています。赤穂藩家老・大石内蔵助(大石良雄)は1701年(元禄14年)7月から1702年(元禄15年)9月まで親類・進藤源四郎の世話により、京都山科に住居を構えて隠棲していたことから赤穂浪士(赤穂義士)ゆかりの場所が京都山科を中心にあります。
【赤穂浪士ゆかりの場所 マップ・地図】
【赤穂浪士ゆかりの場所 瑞光院】
瑞光院は瑞光院3世・陽甫が浅野内匠頭の夫人・瑤泉院の親戚だったことから浅野家の祈願寺になりました。瑞光院では殿中刀傷事件によって内匠頭が切腹すると供養塔が建立され、赤穂事件によって大石内蔵助ら赤穂浪士(赤穂義士)が切腹すると遺髪が埋められて遺髪塔が建立されました。
瑞光院は元々豊臣政権の五奉行筆頭で、浅野氏14代当主・浅野長政の別邸(上京区堀川鞍馬口)があった場所です。瑞光院は1613年(慶長18年)に因幡若桜藩初代藩主・山崎家盛が大徳寺・琢甫宗林を開山として創建し、大徳寺の塔頭になったのが起源です。
瑞光院・赤穂浪士ゆかりの場所
【赤穂浪士ゆかりの場所 花山稲荷神社】
花山稲荷神社は山科に隠棲した大石内蔵助が篤く崇敬したと言われています。花山稲荷神社には大石内蔵助ゆかりの血判石・断食石・鳥居が残されています。
花山稲荷神社は903年(延喜3年)に第60代・醍醐天皇の勅命によって造営され、西山稲荷と言われたのが起源と言われています。その後第65代・花山天皇が篤く崇敬したことから花山稲荷神社とも言われるようになったとも言われています。988年(永延2年)に第66代・一条天皇、1174年(承安4年)には平清盛の嫡子・重盛が社殿を再建しました。
花山稲荷神社・赤穂浪士ゆかりの場所
【赤穂浪士ゆかりの場所 大石神社】
大石神社は大石内蔵助を祭神に祀っています。大石神社は内蔵助が隠棲したと言われている岩屋寺に近く、内蔵助直筆とされる書・小野寺十内秀和らの手紙などの遺品や47士図屏風が宝物殿に収蔵・展示されています。
大石神社は昭和初期に赤穂浪士(赤穂義士)を崇拝していた浪曲師・吉田大和之丞(吉田奈良丸)が大石内蔵助ゆかりの山科に神社を造営することを計画したのが起源です。その後1935年(昭和10年)に京都府知事を会長とする大石神社建設会が社殿を造営し、討入の為の武器を納入した天野屋利兵衛を祀る義人社も造営されました。
大石神社・赤穂浪士ゆかりの場所
【赤穂浪士ゆかりの場所 岩屋寺】
岩屋寺(大石寺)は大石内蔵助が隠棲した閑居跡とも言われています。岩屋寺の本尊・大聖不動明王は大石内蔵助の念持仏と言われています。岩屋寺には浅野内匠頭の位牌や赤穂浪士(赤穂義士)の像が祀られ、境内には内蔵助の遺髪を埋めた遺髪塚があります。岩屋寺では12月14日に内蔵助が使用した文机などの遺品が公開されます。
岩屋寺は天台宗・比叡山延暦寺に属し、比叡山三千坊と言われる比叡山上にあった僧侶の住坊が起源とも、897年(寛平9年)に第59代・宇多天皇の勅命によって造営された山科一之宮・山科神社の神宮寺として創建されたのが起源とも言われています。
岩屋寺・赤穂浪士ゆかりの場所
【赤穂浪士ゆかりの場所 極楽寺】
極楽寺は大石内蔵助が隠棲したと言われている岩屋寺に近く、内蔵助が施主になって浅野内匠頭の位牌を納めました。極楽寺の庭に建立されている五輪塔は遺髪塚とも言われています。
極楽寺・赤穂浪士ゆかりの場所
【赤穂浪士ゆかりの場所 西方寺】
西方寺には小野寺十内秀和の妻・丹女が建立した秀和の墓などがあります。
西方寺は平安時代末期に浄土宗の開祖・法然上人に帰依して出家した左大臣・大炊御門経宗の居館があった場所です。1189年(文治5年)に経宗が亡くなると居館が寺院・西方寺に改められました。ちなみに正式名である「願海山法性覚院西方寺」は経宗の法名「法性覚」に由来しています。
西方寺・赤穂浪士ゆかりの場所
【赤穂浪士ゆかりの場所 来迎院】
来迎院には大石内蔵助が寄進した茶席・含翠軒(がんすいけん)や遺愛の茶釜があります。また内蔵助の念持仏・勝軍地蔵は本堂に安置されています。内蔵助は外戚の来迎院・卓巖和尚に頼んで寺請証文(檀家の証明証)を受け、山科に閑居を構えることができました。
来迎院は寺伝によると真言宗の開祖である弘法大師・空海が唐(中国)で感得した三宝大荒神像を祀ったのが起源と言われています。1218年(健保6年)に泉涌寺第4世・月翁智鏡が鷹司信房(藤原信房)の帰依を得て堂宇を建立し、泉涌寺の子院にしました。
来迎院・赤穂浪士ゆかりの場所
【赤穂浪士ゆかりの場所 法住寺】
法住寺は赤穂浪士(赤穂義士)の連絡の場所で、大石内蔵助は仇討ちの大願成就を身代り不動尊に祈願したと言われています。法住寺には赤穂浪士(赤穂義士)の小像(四十七士木像)が安置されています。
法住寺は989年(永祚元年)に太政大臣・藤原為光が妻と娘の菩提を弔う為に創建したのが起源と言われています。1161年(永暦2年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が法住寺跡に離宮・法住寺殿を営み、1176年(安元2年)に後白河上皇の女御・建春門院が亡くなると建春門院の御陵として法華堂を建立しました。
法住寺・赤穂浪士ゆかりの場所
【赤穂浪士ゆかりの場所 上善寺】
上善寺には二文字屋次郎左衛門の娘で、大石内蔵助の妾・お軽(於可留・梶)の墓(清誉貞林法尼)があります。
上善寺(鞍馬口地蔵)は寺伝によると863年(貞観5年)に第3代天台座主である慈覚大師・円仁が天台密教の道場として千本今出川に創建したのが起源と言われています。文明年間(1469年~1487年)に天台宗の僧・春谷盛信(しゅんこくせいしん)が再興し、第104代・後柏原天皇の勅願寺になり、勅額・千松山(せんしょうざん)を賜りました。
上善寺・赤穂浪士ゆかりの場所
【赤穂浪士ゆかりの場所 地蔵院】
地蔵院には赤穂浪士(赤穂義士)に討入の為の武器を納入した天野屋利兵衛の墓があり、木像や遺品などが残されています。
地蔵院(椿寺)は726年(神亀3年)に僧・行基が第45代・聖武天皇の勅願により、大阪摂津の昆陽野池の畔に創建したのが起源と言われています。天正年間(1573年~1592年)に関白・豊臣秀吉の命によって現在の場所に移され、1587年(天正15年)の北野大茶会の際には秀吉から五色八重散椿が寄進されました。
地蔵院・赤穂浪士ゆかりの場所