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カテゴリー:その他
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得浄明院(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
得浄明院ゆかりの信州善光寺大本願第117世・誓圓尼(せいえんに)は伏見宮家19代・邦家親王の第3王女で、還俗を強要されたが拒否して善光寺大本願の住職になり、寺院を神社に改めることにも抵抗したそうです。 -

八瀬天満宮社(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
八瀬天満宮社の祭神・菅原道真は右大臣になるが、901年(延喜元年)左大臣・藤原時平の讒言(告げ口)によって太宰府に左遷され、903年(延喜3年)に亡くなりました。なお菅原道真の死後、悪疫が続き、道真の怨霊の仕業と恐れられました。 -

静原神社(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
静原神社は上賀茂神社・下鴨神社と関係が深く、両社の祭礼である葵祭(賀茂祭)に使われる二葉葵はかつて静原神社から採取されました。なお葵祭の名称は二葉葵を桂の小枝に挿し飾ることに由来しています。 -

称名寺(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
称名寺には1926年(昭和元年)に桑原家から移された「弁慶石」が本堂近くにあります。「弁慶石」の上では源義経(牛若丸)と武蔵坊弁慶が主従の盃を交わしたと言われています。なお「弁慶石」はかつて鞍馬寺にあったとも言われています。 -

慈雲寺(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
慈雲寺(島原の妙見さん)は洛陽十二支妙見めぐりのひとつです。洛陽十二支妙見めぐりは京都御所・紫宸殿を中心に十二支の方角に祀った妙見宮を巡って福寿開運を祈願します。なお慈雲寺は申(さる)の方角に当たります。 -

慈眼堂(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
慈眼堂のある嵯峨には公家で、歌人であった藤原定家が山荘を構え、小倉百人一首を選定したと言われています。なお定家は1201年(正治3年)に和歌所の寄人に選ばれ、「新古今和歌集」の編纂に加わり、「新勅撰和歌集」を編集しました。 -

七観音院(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
七観音院を創建したと言われている七条院殖子(しょくし)は藤原信隆と藤原休子の娘で、建礼門院に仕え、高倉天皇の妃として後鳥羽天皇を生みました。なお七条院殖子は1205年(承元元年)に出家して真如智と称しました。 -

実報寺(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
実報寺ゆかりの日尊(にちぞん)は幼くして天台僧として出家し、日蓮六老僧の一人である日興(にっこう)に師事するが、1299年(正安元年)に破門されました。ただ日尊は後に赦されたそうです。なお日尊の弟子には日尹・日大がいます。 -

寂庵・瀬戸内寂聴(アクセス・マップ・・・)
寂庵を開いた瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)は東京女子大学在学中に見合い結婚し、女の子を出産したが、夫の教え子と恋に落ちて夫と3歳の長女を残して家を出ました。なお寂聴は作家として1956年に処女作「痛い靴」を発表しました。 -

西福寺(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
西福寺には文人・上田秋成の墓(生前墓)があります。上田秋成の妻・たま(瑚璉尼)が九条出身で、西福寺の住職・玄門(げんもん)と懇意になり、秋成が自ら生前に西往寺を墓所にすることを決めたと言われています。 -

西迎寺(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
西迎寺ではかつて西国三十三箇所巡りの「うつし霊場」を巡った西の岡三十三所巡りが行われていたが、明治維新後の廃仏毀釈によって次第に廃れました。なお西迎寺は現在京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)の第4番札所です。 -

西方寺(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
西方寺では檀家が船形保存会を結成・世襲し、五山送り火に数えられる船形(船形万灯籠)に奉仕しています。例年8月16日に行われる船形終了後、西方寺の境内では六斎念仏(念仏六斎)が奉納されます。














